祈り

 何時の頃からからだろう、私は神に祈るが、頼むことをしなくなった。

高校受験の年の正月の初詣で「なるようになりますように、なるべくなりますように」と

祈り「受かりますように」とはお願いしなかったことを覚えている。

その後、恋愛でも結婚でも「それが、私に必要なことであるならお与え下さい」と祈り

どうして下さいと頼んだことはない。

 何か事が起きて行き詰った時、「それが私に必要なことでしたらお与え下さい」と祈って

きた。

そして「与えられたことに対しては、出来る限り誠心誠意を持ってやっていくように

頑張ります。しかし、どーしても私の力では無理になったその時は、あなたにお任せ致し

ます」と祈ってきた。

 人は先ずは自分の力で生きるべきだと思う。と同時に、自分の力だけでは生きられない

人の、助けになることが人間の使命なのだと思う。 (相変わらず堅いねー)

人の助けなしで生きている人はいないが…。

しかし、よーく考えてみたら、七夕の短冊だけには願い事を書いてきた。

願い事は、犬や家族の病気回復、子供の問題であった。

どうも私は根暗なのか、明るい願いというやつは少ない。

あー、それでも「家と店を持てるように」というのが24年前にあったが、前向きな願い

はそれだけだった。

その後に店が潰れそうになり「ここに置いて下さい」と頼んだ。

全部叶ってきた。そう言うと「宝くじが当たるように書いたら」と言う人がいる。

「サルの手の3つの願い」の話を知っているだろうか。

流れに逆らった願いは破滅へと向かう。

 

思い上がりだろうが、私が嫌だなと感じる人は転落していく気がする。

それはどういう人かというと、目を瞑って生きている人だ。

何が本当に大事かを考えようとせず、形に囚われ、形で人や物事を決めつける。

自分の考えが総てで人の話を聞こうとしない。

現(うつつ)を抜かし、バーチャル(仮想)の世界で生きている。

自分の目で見て聞いて感じて考えようとしない。

反対に夢がない人。無味乾燥でマイナスのことばかり言って他人の心まで暗くする。

闘争心の塊で戦うことしか知らない。

そういう人は自己中心で、自分に有利な人モノには便宜を図りいい顔するが、いったん

嫌いになったり役に立たないと踏むと、その意見の内容でなくその人の意見だということ

で却下したりする。

自分の感情を抑えて判断することが出来ないのだ。

自分を好きだったら賛成する筈だ、許してくれる筈だ。

面倒見てやったんだから黙っていうこときけ。

嫌いな人には挨拶しない。返事をしない。

好きな人、自分にとって有利な人をエコヒイキし、弱いモノ役に立たないモノは無視する

意地悪する。

自分のモノは大切にするが、他人のモノは乱暴に扱う。

家族や職場を私物化してワガママを通す。

自分の満足の為には人を踏みつけにする。

心ない人に与えられた金や権力など総ての力は、凶器と化す。

そういう人は、与えられたとは思っていない。自分の力で手に入れたと思っている。

自己満足のための満足は、本当の満足も安らぎも得ることはない。

 

 今年の七夕の願いは、

「道が拓けますように」と「納まりがつきますように」だった。

 

真の平和と人の幸せを願う人は、幸せになれる。

だって、人の幸せを祈る心そのものが、幸せで平和だから…。

             とはいえ

言うのは簡単だが、行うのは難しい。

 お前は出来ているのか?と聞かれたらノーだ。

 でも、出来るように頑張りたい。頑張る。inori.htm へのリンク