イタコ続

 

 この間のその人イタコじゃないの、って感じの彼女と私の友達が知り合いだった。

こりゃ、渡りに船だと早速友達に

「ねぇー、今度その彼女誘ってさ、ウチに連れてきてよー」と頼んでみた。

 そしたら「いやだなぁ」と言った。

「何で」

「だって、私あの人キライなんだもん」

「えー、何で」

「んー、何て言ったらいいのか分かんないけど、何かイヤなの」

「えー、どういうトコが?」

 

 その友達は、一見強そうで怖そうに見えるかもしれないが、正義感が強くて面倒見の

いいズルイ所がない人だ。(と私はみている)

 不当な人の悪口や噂話をしない彼女が、“キライ”と言うとは、こりゃ普通じゃない。

「ねぇーねぇ−、どういうトコがキライなのよ、おせーて、おせーて!」と小松政夫風

に重ねて聞くと、

「他人じゃないからあんまり言いたくないんだけど、そこの家に行ってもお茶の一杯も

出たことないの。

別にいいんだけど、行くと何処かに出掛けちゃったり隠れてたりして姿を見せないの」

「へぇー、人が怖いのかな」

「それにしちゃ、用事があってウチにきたりすると大威張りで飲んだり食べたりして

気も使わないし、どーってことない感じなんだよね。

こういうこと言うと欲しいみたいでやなんだけど、いくらこっちが何か持って行っても

お礼の言葉もなければ、あっちが何か持ってくることはないんだわ」

「ふーん、気が利かないボケナスなのかな」

「でも、何だかエラソウに喋るよ」

「あー、やっぱ会わない方がいいかな」

「いや、あの人をやっつけられるのは麻子さん位しかいないかもしれない。

やっぱ、一回会ってバシッとやって欲しいな」

「えー、ヤダよぉー。アタシ弱いもん」

「バカ言ってんじゃね」

と、オチが付いた所で話は終わった。

 まぁ、縁があればその彼女とも会うことになるんでしょう。

 

が、以前に家の中にズカズカ入って来て辺りをジロジロ見て

「ここの家に男は住めない」と言った人を思い出した。

 その彼女は普通の人には分からない色んなことがあって生きてきて、その時は左官屋

をやっていて、新興住宅の手助けに来ていると言った。

「あたしは、霊感があるんだ」とその人は言った。

 こりゃ、流した方がいいな。と思った私は、

「へぇー、そうなんですか」

「あんたもあるだろ」

「いえー、ないですよぉ」

「何言ってんだ、そんなに研ぎだしておいて」

「えぇー、何のことですかぁ?」

と、最後まで話を流したが、時々こういう人と会うことがある。

その人は、和室の長押(なげし)に突っ込んでいた神社から貰って来た御祈祷や熊手が

古くなって埃だらけになっているのを見て、あれをちゃんとしろ。と私に言った。

 なるほど。と思った私はそれらを整理して煤を払いちゃんとした。

後日彼女は再びやって来た。

そして、また勝手に奥に入って来てキレイになった長押を見て、そこに居た娘に

「あんたのお母さんは大した人だ」と言ったらしい。

 何がどう大しているのか分からないが、人は何かと張り合ったり戦ったりする必要は

ないんじゃないかと思う。

 しかし、戦うのと競うのは別で、自分を切磋琢磨して競うのは大いにすべきだと思う。

 

 そして、もう一人思い出したのがやっぱり「私、霊感があるのよ」と言ってきた彼女。

その人も私に「あなたも霊感があるでしょ」と何度も言ってきた。

 私は霊感というのがどういう感じなのかが分からない。

 

なんとなくそういう気がして、或いはどーしても言いたくなって、或いは言わざるを得

ないことになって、それ言うと、それが当たっていたり、その人のヒントになったりする

ことはある。

 あるが、それは、その人が自分で求めていて、その時期がやって来ていて私の言った

ことの中にその人自身が気が付く。という感じなんじゃないかと思っている。

 

 自分は霊感がある。と言ってきた二人の彼女に共通点を感じた。

話している時「教えてあげる」という口癖。

「これは、〜なのよ」と上から押さえつけてくる話し方。

 そして、相対する人によって話や態度が変わる。

過去にあったこと辛いことが忘れられないでいる。

 私は、彼女たちの淋しさと劣等感を(勝手に)感じた。

それは、幼子(おさなご)のように手放しでありのままで愛されたいという想いだった。

 それは、どんな人にもある根源の想い。

二人は、幼い時に母親に見捨てられていた。

 死別ではなく見捨てられていた。

 

 変わり者の私は、子供の頃から思っていたことがある。

現世で自分を産み育てたのは両親であるけれど、別のオヤがその後ろに居て、自分はオヤ

にこの世に送り出された。と。

しかし、私の両親もその両親だけでなくオヤによって送りだされた自分と同じ存在。と

いう思いに至ったのは最近で、そう実感した時、自分って何て思い上がりも甚だしい人間

なんだ。と笑ってしまった。

 私は、自分ばかりが特別の存在のように思ってきたのかもしれない。

 

 話を霊感のある二人に戻すと、この世で人間に愛されようと愛されまいと、その後ろに

手放しで、ありのままの自分を受け入れ見守っているオヤが居ることに気が付くといいな。

と思う。

 愛されるため、認められるために力を注ぐのでなく、他人との戦いにエネルギーを消費

するのではなく、マッサラなワダカマリのない自分になって、無心に遊ぶ(生きる、働く)

ことに心を向けることが出来た時、心は満たされる。と思う。

 

 またもや、宗教っぽい。けど、そう思うんだもん。

 

 

 

 

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