一休

 

 ハイビジョンで“一休宗純”をやってた。

子供の時“一休さん”を読んだが、私が読んだ“一休さん”は、1394年に生まれの

“一休宗純”遷化(死んで)から200年も経った江戸前期に『一休咄』一休トンチ話

として世に出たもの、で、テレビでやったのは、“一休宗純”

 

 彼の出生地は京都、後小松天皇の落胤(おとしだね)という皇胤説があって、

幼名は千菊丸。

 落胤ってのは、ちゃんとした奥さんでない女の人に作った子供のこと。(男には作れねぇ)

失礼しちゃうよな、落とした胤(たね)の子供なんだぜ。

 まあ、花なんかもちゃんと蒔いた種よりコボレダネの方がしっかり根を張ってキレイな

花を咲かすことがあるけどね。

 正妻の子でない彼はお家騒動なんかにならないように、ってことなんだろうね。

6歳で安国寺の像外集鑑に入門、受戒し、って、させられたんだろうが!なぁ。

長じて狂雲子、瞎驢(かつろ)、夢閨(むけい)などと号す。

戒名は、宗純で宗順とも書く。一休は道号。

 

 先ずは、“周建”と名付けられるが、6歳で母と離された淋しさ心細さはどんなだったか、

それは、一休の心に一生巣食うことになる“穴ぼこ”だったんじゃないだろうか。

 ワシは、どんな人にも気が付くと気付かないとの違いはあれど、何らかの穴ぼこって

やつを持っているんじゃないかと思っている。

だから、一休を可哀想だなんて言いたくない!のじゃ。

 

詩の才能があって13歳で漢詩『長門春草』、15歳で『春衣宿花』の漢詩が

洛中(らくちゅう)評判となり称賛される。

 一休は、17歳で謙翁宗為(けんおうそうい)の弟子となって戒名を“宗純”と改める

が、その4年後謙翁が没する。

その時、宗純、一休は22歳で琵琶湖に身投げをしようとしてとめられ、死ぬことも

出来ないのかと、手内職で香り袋を作って細々と暮すことになる。

世の中は天災、飢饉による貧困、一揆など先の見えない不安の時だった。

 

その翌年、高僧の華叟宗曇(かそうそうどん)の弟子になり公案に対して

「有ろじより無ろじへ帰る一休み雨ふらば降れ風ふかば吹け」と答えたことから一休の

道号を授かって、一休となる。(ふー)

 

 因みに、有漏路(ゆろじ)とは、迷い煩悩の世界。

無漏路(むろじ)とは、悟り(仏)の世界。を指すという。

 

 そして、27歳になった夜に座禅を組んでいて烏(からす)の声を聞く。

そこで、俄か(にわか)に大悟する。

華叟は印可状を与えようとするが、一休は辞退する。(印可状ってのは、世に認められる

証書みたいなもんらしい)

 華叟は、そんな一休をばか者と笑いながら送り出したという。

それから、一休は、詩、狂歌、書画と風狂の生活に入る。

 

 自由奔放で、奇行が多かったという一休。

ホントかどうか分からないが、これだけあるってことは、あるんだろう。

     印可の証明書や由来のある文書を火で焼いた。

     男色はもとより、仏教で禁じられていた飲酒、肉食、女犯を行う。

     盲目の森侍者(しんじしゃ)という側女や実子の弟子が居た。

     信仰のあった本願寺の蓮如の留守中に上がりこんで阿弥陀如来像を枕に昼寝。

戻った蓮如は「オレの商売道具に何をする」と言って二人で大笑いしたという。

     正月に棒の先に骸骨を付けて家々を歩く。

 

 一休が朱塗り刀を持って歩く。坊主が、それも目立つ赤い鞘(さや)の刀。

「何だ、何だ!」と人が集まって来る。

 騒ぎになったところで、一休は鞘から刀を抜く。それは竹光。

 驚く人々を見ながら、

「こういう竹で出来たニセモノでも立派な鞘に納まっていると本物だと思ってしまうべ」

と笑う。

 

 一休の絵に、スベテの人間が骸骨(がいこつ)で描かれている絵がある。

花見をしている美しいであろう女性も、大金持ちの家に暮す人も、貧乏人も大人も子供も

葬式をしている人も骸骨なら、死体となって運ばれている人も、みーんな、骸骨。

 「一皮ムケバみな骸骨」と一休は言う。

 

『一休の遺した言葉』ってのが、これまた面白い。

     門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし

     釈迦といふ いたづらものが世にいでて おほくの人をまよわすかな

     秋風も一夜百千年(秋風のなか あなたと共にいる。それは百年にも千年の歳月

にも値するのもだ)

     花は桜木 人は武士 柱は桧(ひのき) 魚は鯛(たい)小袖はもみじ 花はみよしの

     女をば 法の御蔵と云うぞ実に 釈迦も達磨もひょいひょいと生む

     南無釈迦じゃ 娑婆じゃ地獄じゃ 苦じゃ楽じゃ どうじゃどうじゃというが

愚かじゃ

 ○親死に 子死に 孫死に

 

著書に「狂雲集」「続狂雲集」「自戒集」「骸骨」があるが、足利義政とその夫人日野冨子

の幕政を批判したことも有名らしい。

 

 やりたい放題やって言いたい放題だった一休、それでも民衆からも好かれて、沢山の

弟子が居た。

自分は好き勝手にやってたクセに、最後は弟子達に

「みんなでよく話し合って相談してやっていきなさい」ちゅうようなことを言ったらしい。

 

 1481年、88歳で酬恩庵に没する。

臨終に際し「死にとうない」と言ったらしい。

 

 

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