スクールカースト
このスクールカーストの話を聞いて、次々と色んな思いが吹き出してきた。
思い入れが強すぎて、どこから書こうかと思っているうちにドンドン時間が過ぎて行く。
あ〜、もう、どこから書くか考えてるより、片っ端から書いてやろう!
と、奮起一転、で書く。
<スクールカーストとは>
学校での権力の座、ポジションが決められているという。(学校に寄って違いはある)
Aの一軍、Bの二軍、Cの三軍、そして軍に入らないはぐれの一匹オオカミ。
この一匹オオカミは、いじめられて仲間に入れてもらえない者と、自ら自由でいる者と
が居る。
一軍は容姿が良く、経済的、家庭にも恵まれ、コミュニケーション能力に長けている。
このコミケの能力は集団の中で、評価のポイントが高い。
スポーツや頭脳も一目置かれるポイントとなり、そこには一軍に存在することを必死
で守ろうとしている者と、自然にそうなった者が居る。
二軍は、普通と言われる者達だが、一軍に媚びながらそこに入れない者と、一軍に入る
ことを虎視眈々と狙っている者が居る、そして、事なかれ主義で目立たないように息を
ひそめる者が居る。
三軍は、容姿が劣りドン臭く見るからに華やかさのない者、経済的家庭的に恵まれない
者と、一軍二軍での誰かの気分を害すような言動をして落とされた者、妬(ねた)み嫉
(そね)みからの陥れでなった者が居る。
そして、そこには暗黙の裡(うち)のルールが存在する。
例えば、一軍の子がラインで、「今日の宿題なんだっけ?」「明日の持ち物何だっけ?」
などの質問を入れると全員が一斉に返すが、二軍の場合は、一軍は返さず二軍が返す。
それが、三軍が聞いた場合は、全員が既読スルー(見た事を残して無視)をする。
三軍の質問に答えたり、三軍と仲良くしたりすると格下げとなるからだ。
<昔から、ずーっと昔からあった階級制度>
最初にその言葉が出たのは、2016年の教育問題の国会発言だったらしいが、昭和
29年生まれの私が子供だった時もそういったことはあった。
思春期から大人になり、就職して働くようになってからも、そして今現在でもずっと
このカースト制度的な人間階級は存在している。
それは、士農工商の下にエタ非人(ひにん)があり、部落民があり、漂流の民サンカが
存在していた。
<議長に立候補>
ある人が、小学5年生の時、学級活動の議長に立候補した。
他に立候補者が居なかったので、すぐに決まった。
二学期も立候補したが、続けてなってはならない。というキマリで彼女は、副議長にな
った。
彼女の成績は、中程度、クラスの中でそう目立つ訳でもなく、先生が「人って、子供でも
分からない面があるんですね」と母親に言った。
母親は、「どうして議長になりたかったの?」と娘に聞いた。
彼女の答えは、「学級会でみんなが意見を出すと、明らかに勉強の出来る人の意見は取り
上げられて、勉強が出来なかったりちょっと馬鹿にされてる子の意見は無視される。
それがないようにしたいから議長になった」だった。
母親は、ちょっと嬉しくてちょっと感心した。らしい。
意見、提案の内容でなく、“誰の”意見であるかが重要視される現場がある。
そこには、相手や自分の立場、好き嫌いによって判断や言動が変わる恥知らずが存在
している。
<ダモクレスの剣>
ダモクレスは、王様の椅子を手に入れた。そこに座って、上を見上げた瞬間背中が凍りつ
いた。
そこには、鳥の毛(髪の毛一本)で結ばれた鋭い剣が、天井から吊るされていた。
支配者の幸福には常に危険と不安が伴っている。
面白い事に、スクールカーストのポジションの中で一番幸福を感じていたのは、アン
ケート調査の結果、二軍のそれも上を狙わない者達だったらしい。
<家庭にみられる支配階級制度>
先ずは、支配階級制度の基本が家庭にある。
そして、その基本中の基本は、挨拶と返事にある。と、私は思っている。
子供が「おかぁさん」「おとーさん」と、話しかけて返事をしない親のなんと多いことか。
なぜ、返事しないのか?
普通と言われる家庭で育った“ある人”には、親の言うことをきかないと体罰があった。
その親(母)は機嫌が悪いと、返事をしない人であった。
その人(母)は、その時の体調、気分によって意見や考えを変えて、同じことであっ
ても、ある時は機嫌よくオーケーが出て、ある時は酷く怒った。
その人は、自分が悪いから親が怒るのだと思っていたが、いや、自分が悪い時もあったが
その時の親の気持ちの吐け口、八つ当たりの時も多分にあったと気が付いた。
人は自分を正当化する為に人を悪者に仕立て上げる場合と、人を責めないようにする為に
自分を悪者にする場合がある。
そのどちらもが、悪者を作り上げようとしている。
良い悪いの判定でなく、そこにあった事実と問題点に目を向けることが問題解決の道だ。
<立場、身分、どこに立って考えるか、最後は肩書のない自分に戻る>
分を弁える、目上の者に敬意を払うことは、必至であるが、自分が目上であることを
笠に着て誰かを何かを支配しようとする事程、恥ずかしいことはない。
私は、子を育てている親に思って、思い続けて来た。
あなたの子は、あなたの子であって、あなたのモノではない。と。
子供には、子供の人生が在り、その者自身の運命宿命に御縁があって彼自身の人生を
彼の意志選択によって彼の足で歩いて行く。
親が子供を育て満足したり、喜びがあっても、それはあなたの満足喜びであって、
彼は、親の満足を満たすために産まれて来たのではない。
子供は、親がやりたかったことを、代わりにやる代理人でもない。
一人ひとりの人間が、自分の運命と宿命を持って生まれ、自分の人生を自分の足で歩き
じぶんが生まれて来た意味に巡り合い使命に気付き、そこに精進していく。
親は、親というより一人の人間として自分の人生を歩くのだ。
人は、自分以外の人やモノを自分の思い通りにしようと思わなくなった時に初めて見え
て来るモノがある。と私は思っている。
子育ては、子育てに限らず、メダカ育てから国家までその構造は同じなんじゃないかと
私は思っている。
それは、自分の想いを発信したら、或いは環境を整えて、そこまでやったら、その先
は自分の手で思い通りにしようとしないこと。自分は自分を生きる。
ジャンジャック・ルソー言う所の自然先生、親鸞聖人の自然法爾(じねんほうに)
それが、人が生きる核の力であると思うのです。
話が対極に大局に向かって逸れて行くのは、私の専売特許なので悪しからず。
それが何か分からないと思ったら調べて下さい。
<インドのカースト制度>
カースト制度というのは、インド社会に固有な身分制度で
三角形の頂点に、@司祭、次に、A王族武士、次にB平民、そしてC奴隷となっていて
@バラモン、Aクシャトリア、Bヴァイシャ、Cシュードラと呼ばれ、その下に
人間扱いされない人々、アチュートが居る。
私、思うんですが、戦争と暴力の反対側に在るのが、平和と愛ではなく“対話”であ
るように、カースト制度の反対にあるのは、単なる平等ではない気がするんです。
インドのカースト制について、ガンディーが言ったらしい。
カーストはあってもいい、でも、カースト外(がい)も全てハリジャン(神の子)である。
と。
今、Yちゃんがインドに帰っているんですけど、これ読んでますかー?
人は、人に限らないんですけど、平等って何ですかね?
全てのモノは、生まれながらにして全て形が違います。
そこに与えられる環境、能力、そこにある運不運が違う。
そして、人間万事塞翁(にんげんばんじさいおう)が馬で、何が不運か幸運かは、時が
経たねば知るよしはない。
諦めとは、明らかに認めることである。と言った人が居る。
置かれた場所で、自分を生きる。
そう腹をくくったら、今出来ることが見えて来るんじゃないかと思う。
<既読スルーは、恥>
恥のなんたるかを知らないことを、恥知らずと言う。
話しかけられて、返事をしないことは恥知らず。
人は、何に対しても失礼であってはならない。と思う。
最初、一軍が率先して返事を書いたらいいんじゃないかと思ったが、そこには、ある
落とし穴がある気がした。
ただ返事を返すことが、まるで特別良い事をしているような周りからの持ちあげが
あったり、一軍がこのワタクシが返事をしてあげてます。的なパフォーマンスであった
ら気持ち悪い。
当たり前のことを、当たり前に、気負わず行う。
返事を返すのは、相手への礼儀であると同時に、自分の誇りだ。
<バガヴァット・ギーダー著>
なすべきことは、行為そのものであり
けっして、その結果にはない
これがヒンドゥーの教えで、三千年も前にあったんだってよ。