私は貝になりたい

 

 戦争の話をすると、私の中の何かのスイッチが入る。

侵略、従軍慰安婦、捕虜、虐殺、集団疎開、爆撃、焼夷弾、原爆、それを話していると、

聞いている人もおかしくなり出す気がする。

 

「その話、聞きたくない。私は出来れば嫌な話は聞きたくないの。

どうして戦争の話は語り継がなければならないの?」と、その若者は言った。

 

どうして語り継がなければならないのか。

それは、戦争という悲劇を再び起こさないためだと思う。

そこにあった事実を、闇から闇に葬ってはならない気がする。

「そんな嫌な話をしなくても、もう起こさなければいいじゃないの」と言うが、

自ら望んだ訳でもないのに、そこに生きねばならなかった人を忘れてはならない気がする。

 

人間ってヤツは馬鹿だから(私を筆頭に)喉もと過ぎれば熱さ忘れるで、

辛かったその時は「こんな馬鹿なこと絶対にしない!」と思っても、忘れた頃に

また、愚かな過ちを犯す。

それどころか、戦争を、愚かとも過ちとも思わなくなってしまうことさえもあり得る。

戦争の悲惨さは、忘れてはならないことだと思う。

 

侵略や従軍慰安婦は、生き証人が消えていく中で、それがあったかなかったかの論議に

すり替わり始めている。

 昔、戦争はいけないことだという話になると、戦争で戦った人を否定するのかという

論争になっていたことを思い出す。罪を憎んで人を憎まず。戦争は罪だ。

 戦争で戦った人も被害者。勝った国の人も、負けた国の人も被害者。

戦争に勝者は居ない。

 54歳になった私が、子どもだった頃、戦争を知らない子供たちが、大人が語る戦争の

話を聞かず「また、その話か、耳にタコが出来る」と聞く耳を持たない。という話が持ち

上がった。「どうして聞きたくないのか?」という問いに

「同じ話で面白くない」「押し付けがましい」「暗い話で気分が悪くなる」との答えだった。

 今、私が同じことを言われている。

戦争の事実だけが知りたいと若者が言った。

 感情的にならず、戦争を美化するのでもなく、悲惨さを誇示するのでもなく、本当の

事実だけを知りたいと言った。

 それを聞いて、私もそうだったことを思い出した。

 

23年前に台湾に行った時、まあ、勉強嫌いだった私の勉強不足かもしれないが、

初めて日本がアジアの国々に侵略していたことを知った。

台湾の国を日本人が統治していて

その後敗戦したが、日本家屋が残り、徴兵制度も日本が残していった置き土産だという。

そこで会った50歳以上の人たちは、日本語教育の名残で日本語が上手だった。

 シンガポールでは、戦争前夜の日本の様子が再現され多国の言葉で流されていた。

グァム、サイパン、インドネシアの諸島にまで日本軍は行っていた。

日本は、どれだけの国に勝手に入って行っていたのか。

中国では日本が教えないで闇に消そうとした事実を、教科書で子供たちに教える。

 そこでまた、それが事実かどうかという論議になる。

そう、それが事実かどうかということも、大事な問題だが、都合の悪いことは教えない

という体質こそが一番のネックだと思う。

 

 そして、言論の自由の考え方が変わってきている気がして怖い。

自由には、ルールがある。と私は思っている。

 自分の好み都合によって話を捻じ曲げたり、きちんとした調査もせず、憶測で発信

してはならない。人を傷つけることを目的としてはならない。

それすらも本人の自由だということになったら、秩序は消える。

ネットの中に殺意ともとれる悪意を感じる書き込みを見る。

 そこにルールを投入出来ないかと言うと、それをすることで内部告発的な保護された

言論の自由も消えるという。

 

 使い古されたことばだが、言葉は、助けにもなるが凶器にもなる。

言葉は、美味しい料理を行う包丁にも手術をするメスにもなるが、人を刺し殺すナイフ

にもピストルにもなるということだ。

 だったら、最初から人を傷つけ殺めることを目的とした凶器は持たねばよい。

包丁で過って怪我をすることがあっても、それは誤ってであって意図してではない。

 

ただ、事実を言うことで、その人が恥ずかしくなるというのは傷つけるために言った

ことでなければ、その人の行動に問題がある。

 

 力にものをいわせた支配者が、言論の自由を盾にとった時、その中にある矛盾を

顕(あらわ)にすることになる。

子供とゲームをやって、負けたら親の沽券(こけん)に係わるから、尊敬されなくなっ

てしまうからとズルをした人が居た。

 ズルをすることこそが、尊敬できない。いや軽蔑に値する。

分からないことで人は本当には軽蔑しない。

分からないことを誤魔化しウソを言うことが、恥ずかしい。

素直に分かろうとしないで、分かっている人を捻じ伏せようとすることが恐ろしい。

 民俗学者で、世界に日本は野蛮な国だと思われてしまうからと、日本にイケニエは

なかったと発表した人が居た。

日本はいい国だということにしたいと、事実を隠そうとすること、事実を捻じ曲げる

ことは、その思いから一番遠い行為であることにその人は気が付いていない。

 

 “私は貝になりたい”の映画を観たのは小学生の時だった。

白黒のテレビで、映画も白黒だったと思う。

 フランキー堺が主演で、暗くて重くて恐ろしい映画だった。

普通のお父さんだった人に、ある日赤紙が来て、戦場に連れて行かれ残酷な兵隊生活が

ある。終戦を向かえ家族のもとに戻り普通の生活が始まる。

 そこにGHQが来る。

戦場で捕虜を殺した罪で投獄され、死刑になる。

 上官の命令で行った捕虜刺殺。牢獄の中で、彼はもだえ苦しむ。死にたくない。

どうして戦争なんてあるのか。残してきた家族。

 その時に家族に送った手紙が、所ジョージが主演した時に公開された。

そこには、「私は牡蠣(かき)になりたい」とあった。

「もう、こんな国にも世の中にも生まれてきたくない。若し生まれ変わるなら、私は

牡蠣になりたい。牡蠣になって暗い海の底にへばりついていたい」

 日本は、自分の国に生まれた者に「もう、この国には生まれたくない」と言われた。

それは、最高に恥ずかしい、最低の国だということだ。

 

 一番弱いモノに親身にならない日本。

親身になってくれないんじゃない。親身にならない。のだ。

それとも、その能力がないのか!?

 

後期高齢者問題も、先送りにすることで今困っている人を見ようとはしていない。

以前の法律に問題があったから今の法律に変えて、今、前の法律より困っているらしい。

 でも、新しい法律を作るのに時間が掛かるんだそうだ。

だったら、もう一度、前の法律に戻したらいいではないか。

 能力もないのに見栄を張って完璧なモノを作ろうったって土台無理じゃろ。

一度、戻して本当にその人たちの身になった法律を、じっくり考えたらどうなんだ。

映画で見た、“ガバメント(政府)の正しいあり方”ってのが、心に焼き付いている。

「正しいガバメントとは、弱いモノの身になって、緻密に間違わないように行うことだ。

そして、何より、間違ったと気付いたら、潔く謝り、そして、正すことだ」って、

いいねぇ。

 

 戦争のない世の中になって欲しい。

もう、みんな正直になって、起きたことは、これから良くなるためのお知らせだから

総てを明らかにして、これからのウソのない、誤魔化しのない、心の休まる世界にして

いこうよ。

 同じ力と労力を注ぐなら、ミンナが幸せになる所に頑張ろうよ。

 ネッ、ガンバローヨー。

 

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