軽はずみ日記1

 

 ワシは子供ん時から、よく軽はずみな人間だと言われた。

そうなんだよ。ワシって“軽はずみ”な人間。

 考えなしにとんでもないことをやっちまう傾向がある。

それを分かっているから臆病になる。

考え過ぎて、やれないことがある。

って言ったら、あなたにやれない時なんてあるのぉ〜。という声が聞こえた。

 そうだよ。言いたいけど言わないできたことが、山ほどあるんだ。

 

でも、あの3,11の震災があって地震も怖かったけど、フクシマ原発の冷却装置が

機能しなくなったと聞いた瞬間、最悪のシナリオが現実のこととして目前に現れた気が

した。

 一人で居るのは怖いという娘の家に2匹の犬と泊まり、電気も水道もない夜に必死で

祈った。

「すみませんでした。わが身の可愛さに本当に書きたいことを書かないできました。

どうか、どうか、万が一、フクシマ原発が、何とか助かりましたなら、書きたいことを

ちゃんと書きますから、どーぞ、書かせて下さい。

お願いします。どーか、書く機会をお与え下さい」

 

 今年、終戦から66年になる今、ここにきて戦争を語り出した人たちが居る。

当時戦争を体験した人たちは、14歳だったとして80歳、戦争の悲惨さ残酷さは、我が

身にに棲みついて離れないガンのような物かもしれない。

 仲間の肉を食べた、死に向かう仲間を見殺しにした、死んだ仲間の衣類靴を脱がせて

身に付けた。その時、国からの助けはなかった。

 80歳を過ぎた今、家族のことも自身の面子も関係なく語りたいという思いが、あふれ

出したんじゃなかろうか。

百人の人が居たら、百の事情があり事実がある。千人の人には千の事が。

それを聞いてウソだと言う人が居た。でも、語っている人の目を見たら分かる。

 

そして、ワシは、軽はずみな性格のまま、思いつめずに軽はずみな日記を、いきあたり

ばったりに書くことにした。

 

 何から書くか。

やっぱり原発かな。

 ワシが原発反対になったのは、何時からだったんだろう。

二女を産んだ翌年の夏(1981年)、原子力のパビリオンみたいな所に長女と知り合いの

子供たちを連れて行った。

 そこの施設は、キレイで科学の発達を感じさせる無機質な感じのする所だった。

その時は、原子力発電、原発がどういうものだか関心もなければ知識もなかった。

でも、そこに行った話をした時「そういう所に子供を連れて行ってはダメだよ」と言う

人が居た。

「海にとんでもない恐ろしい物が捨てられている」とその人は言ったが、その頃の私は

それが何を意味しているのか分からなかった。

 それが、後に使用済み核燃料棒をドラム缶に入れて千葉沖に捨てていた。と、聞く。

当時は法律で捨てることを許していた。と。

 本当なんだろうか。

「まさか、そんなことある筈ないでしょうよ。きっと放射能に汚染されたタオルとか衣服

なんかを捨ててたんじゃないの?」と長女は言う。

 

 話は飛ぶが、私が子供の頃、原子爆病と呼ばれる白血病の漫画が多くあった。

原子爆弾で家や家族を亡くし一人ぼっちになった子供が、親戚に引き取られる。

イジメや迫害にあい、学校で倒れる。気持ちが悪く吐き気が続く。鼻血が出る。

髪の毛が抜ける。

 そして、やせ細り、寝たきりになって夕暮れに起き出したその子の影が夕焼けに長く

黒く伸びて映る。そのシーンは、今も忘れていない。

 その頃だったと思う。

原爆にあったことを本で読んだ。

 生きながら焼かれた、髪が焼け、目がとび出し、衣服が焼けなくなり、身体の皮が手の

先に長く地面に垂れ下がって歩く人たち。

 その地獄絵図は、東京大空襲でも同じだった。

私は、その事実を知った時にどうだったのだろうか、記憶がない。

 恐ろしくて夜も眠れず、食べる意欲がなくなった気がする。

母親が言う。

「おまえは、時々おかしくなることがあって、そういう時は、目がどっか遠くを見てる

ようになって、人一倍おしゃべりの子共が、何言っても『いんねぇ』『食べたくない』って

蚊の鳴くような声で言うようになんだ。

そうなったら、ほらほら言って何か食わせねえとドンドン痩せて危ねえことになんだ」

 よく覚えていないが、原爆と戦争は私のトラウマになったんだと思う。

小学校の頃に原子力研究所が出来て、高学年になるとそこの見学があった。

 私はその時原爆と原子力が同じ核爆発であるということを知らなかったが、原子爆病と

似ている原子力という名前ににイヤな感じがしてならなかった。

 

 大人になって結婚して、二人の子を儲け、30歳になる年に商売をしていた夫の店に

入った。

 その頃、店が経営不振で夜逃げ状態の苦しい生活が続いた。疲れきって不安だった。

だから、そういう夢を見たのか、私は不安定な状態の時に予知夢を見ている。

 といっても、後で予知夢だったのかと気付くのであって、その時は後でそれが起きる

などとは思っていない。

 1985年、夜明けに見た夢。

家族全員がワゴン車に乗って、家から北の方向に向かっている。

 すると、日本海側の空に沢山の飛行機が現れる。

それは、最初は点のように小さかったのだが、ブンブンと飛び回り近づいてくる飛行機を

見て、そのエンジン音が腹に響き「あー、また戦争が始まってしまった」と絶望的な気持

ちになり、また沢山の人が死ぬ。と思った。

 その日、日航ジャンボ機が墜落した。

 

 ある日見た夢は、人々がある方へ向かって歩いている。進んでいる。

でも、その先は断崖絶壁で何もない暗闇、そのまま進めば大変なことになる。

 そっちに行ったら破滅だ。進む人たちにそれを言うと、世の中を混乱させる気か!

分かった風なことを言うな!と、怒りだした。

 すると、神様(?)が、「あれ、間違っちゃった」と、私の耳を取った。

普通の人は目が見えないらしい。噂とガセネタを頼りに進んでいく。

そして、目が見える人は耳が聞こえず口が利けないようになっているらしい。

私は耳を取られたが、それまで喋っていた記憶から口が利ける。

だから、見えることを喋る。

すると、みんながそれを聞いて怒っていても私の耳には入ってこない。だから私は平気。

 

 その夢を見た後、しばらく耳に水が入ったみたいになって、ぼわ〜んぼわ〜んと音が

響いて聞こえているのに聞こえなくなった。

 その頃だった。チェルノブイリの原発実験事故があったのは。

まっ、偶然なんだろうけどね。

 

 1999年の東海村臨界事故の時は、もう原発反対だったな。

人間の手に負えないことがある。そこに手出ししてはならない。と、私は思う。

 そんなこと言ったら科学の発達発展はないでしょう。と言う人は多い。

一度スイッチを入れたら止めることの出来ないものに、スイッチを入れる権利はない。

出した物(使用済み燃料棒)の処理が出来ないんなら、使ってはなんねえべ。と思う。

 

茨城の中でも教学に明るくその名が相応しいと大洗に“常陽”高速実験炉

釈迦如来の左右におられる智慧と慈悲の象徴である獅子と象に乗る文殊菩薩と

普賢菩薩その名を付けて“もんじゅ”高速増殖原型炉と“ふげん”新型転換炉原型炉

の名を付けたというが、神仏様に失礼じゃねえのかな?

 人間はその分を弁えなきゃ何時か天罰が下る気がする。

 

 原発、原子力発電には絶対反対だ。と言ってきた時、何度、聞いたか分からないセリフ。

「じゃぁ、30年前の暮らしに戻ってもいいの?」

「現実問題として、原発がないと電気が足りないんだよ」

「火力発電にも弊害がある」

「あなたは日本の経済がどうなってもいいのか?」

 

先ずは、30年前の暮らしに、戻れるもんなら戻りたいけど、戻る。ってのは無理。

だって、やりたい放題で借金を作ってきての今までの暮らしなんだ。

 何もなかったみたいに戻るわけにはいかない。

行き場のない使用済み燃料棒が、六ヶ所村だけで800トン溜まっている。

確か長崎は水爆で広島が原爆だったと思うが、広島に落とされた“ウラン235”は、

14か16キロだったらしい。

 20キロに満たないウランであれだけのことになった。

それが、800トンだぜ。

1トンって何キロだと思う?

 

そして、原発がないと電気が足りない。っていうのは、脅しだと聞いてきた。

発電する方法も、原発の他に沢山あると聞いてきた。

 これらの話は、この震災で耳を傾ける人が出てきて世の中に出てきた。

それは、良かったとしよう。

震災のすぐ後は、この話を書こうとすると気持ちが悪くなって書けなかった。

でも、書こうって決めた。

この間、言いたい放題で書いたけど“名取市ユリアゲ復興支援”のブログを読んで

今やれることから始まればいいんだ。って強く思った。

 思ったら、ちゃんと思ったことは、ほれ、実行するタイプだから。

大した知識もない、頭も良くないなぁ、ワシ。と思う。

 頭が良いってのは、誰にでも分かるように話すことが出来るってことだと思ってるから。

この間も「言ってること、分かんな〜い」って言われたしな。

 でも、これからめげずに書いていくよ。

 

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