カタルシス(心の浄化作用)への道

 

 その人の中に在る本当の想いを確認する事で確信が生まれる。

そして、その想いに対して信頼する者が同意を示す事で、自信をもって進んでいくことが

出来る。

しかし、それが出来るのは、本当に苦しみ、悩み、戦い、自らがその答えを見つけ出し

ている、見つけ出そうとしている人である。

私は、それを手助けする事がある。

それを、こっそり『おはらい』と呼んでいる。

 他をそしり、馬鹿にし、決めつけ、自分の都合の良いように話をねじ曲げている。

被害者意識から脱しようとしていない人には、まだそれは行えない。

無理に行おうとするとクンダリニー現象、つまりプラーナ(生命の原動力)が

身体内を急上昇する現象が起こり、心身の不浄を焼き尽くす大変な現象が起こるという。

 『七舌』という不浄を焼き尽くすクンダリニーは火の蛇の『舌』といわれ、

七つのチャクラを開眼させるときく。

よく「欲も得もなくなった」と心の峠を越えた、越えさせられた人が言う。

しかし、喉元過ぎれば熱さ忘れるで、それを通り過ぎると思い上がりと我が、欲が頭を

もたげる。

苦しくて欲も得もなくなっている時、その時は辛いが、その時こそがカタルシスの

チャンスなのである。

しかし、いくら辛くても欲を捨てていない、捨てることが出来ない人が殆どなのだ。

悲劇をみて感情が浄化し解放されることを、アリストテレスはカタルシスと呼んだ。

心の浄化がされる時に出る涙をカタルシスの涙という。

しかし、それは浄化された時に自然に流れ出る涙なのであって、

浄化されようとして流すものではない。

私は、お涙頂戴や自己憐憫の涙が嫌いだ。

泣くことでスッキリして、今までの甘い生き方を帳消しにすることは、許されない事で、

それまでの事を踏まえて、受け止めて明らかに見て(諦めて)、今後が始まるのだ。

 今までのことと現在を正しく見すえない者に、カタルシスの涙はない。

 本末転倒(心があっての結果でなく、結果のための形行い)とは

「舌切り雀」のおばあさん、「花咲かじいさん」の隣のじいさん、

「こぶとりじいさん」の隣のじいさん、

「おむすびころりん」でもぐらになったおじいさんと同じ事である。

 

     舌切り雀  洗濯のりを舐めて、おばあさんに舌を切られ、

逃げた雀を心配したおじさんが、雀を捜しに行き雀のお宿を見つける。

そこでごちそうになり、宝の箱(つづら)をもらって帰る。

それをきいたおばあさんが、場所を聞いて雀のお宿を見つけ、無理矢理上がり込み、

恩着せがましくごちそうを出させ、つづらを出させる。

おじいさんが大きいつづらと小さいつづらのいずれが良いか聞かれ、小さいつづらを

もらってきた事に腹を立てていたおばあさんは、もちろん大きいつづらを要求する。

その帰り道、欲張ったせいでつづらが重くなかなか進めず、暗くなり道に座り込んで

ちょっと中を覗いたら、魑魅魍魎(ちみもうりょう)が出てくる。

 

 私は幼い頃、その話を何度も聞いて、読んで、決して欲張らないと心に決めた。

しかし、今にして思うと、若しおじいさんが

「私はまだ力もあるし雀の気持ちが嬉しいから大きいつづらをもらっていこう」と

大きいつづらを持ち帰ったとしても、中から宝が出てきたと思う。

そして、いじわるなおばあさんが、小さいつづらを、もらったとしても

魑魅魍魎(おばけ)は出てきたであろうと思うのだ。

要は、形でなく心なのだ。

雀を思う心、それに結果、形が現れたのであって、どういう選択をしようが、

心があれば良い形が現れるという事だ。

私の中には、やさしいじいさんもいるが、いじわるばあさんも存在している。

「花咲かじいさん」の犬を思う心、「こぶとりじいさん」の踊りを楽しむ心、

「おむすびころりん」のおじいさんのおにぎりよりも歌が聞きたい気持ちと、

この歌だけは歌ってくれるなと言われればちゃんと約束を守って歌わず、

ねずみの世界を楽しむことや、自らの踊る喜びが、良い結果に繋がっていくのだ。

その形だけを、真似て、穴におにぎりを落としてねずみの国に行けたとしても、

その時に聞こえた可愛い歌も聴かなければ、踊りも楽しまず、

この歌だけは歌ってくれるなという歌を歌って、ねずみを恐怖に陥れ、

あたりは真っ暗、土の中を這い回りもぐらになってしまうおじいさん。

形だけ真似ても、心がなければ真逆の事になってしまうということを、これだけ

的確に表現している日本民話はなんてすごいのだろうと感心する。

そして、自分の中のじいさんとばあさん両方をみないと、自分の手綱は握れないのだ。

 

こんなことばかり考えているから、夢が教えてくれたのだろうか…。

夢の中で誰かが言った。

大事なことは、その意味と目的、そして、よろこびであって、そのための形である。

形だけをなぞらえる事で、まちがいは起きる。

 そのことの意味と目的を知って、何のためにそれが起きているのかを知り

そのためには、どうしたらいいのかを考えて行えば

形は違っても、それはみな同じことである。

 同じことをしていても、違うことあり

 違うことをしていても、同じことあり

 

どうしてこういうことがでてくるのだろう?と夢の中で思ったら

 

眠りに入る時と、眠りから醒める時、その境に居る時に、目覚め息づき

それが開く、そして、教える。

誰もがその答えを、自分の中に持っている

それは、自分の中からあらわれる

教えは、誰かからもらうのではなく、自分の中に在る

ただ、共鳴すればよい。

 

あーそうなんだあと眠りながら納得した。

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