記憶喪失
私の知り合いに働き者の人が、結構居る。
東京の知人は、何時もスケジュール帳がギッシリ埋まっている。
何故かと聞いたら、白紙で決まっていない所があると不安がやってくるのだという。
だから、仕事以外のことでも何でもいいから何か予定を入れることに命を掛けている
らしい。
農業を営む知人は、毎日黙々と働きちょっとした趣味なんかもあり、趣味があるから
と仕事の手を抜くことはなくかえって働く。
そんな彼女を見て、そんなに働いて大丈夫かーい？と思っていた。
その人が、一時的に記憶喪失になった。
畑で夫と二人で働いていたら「眠い」と言ったらしい。
「じゃあ、ウチに帰って休んでな」と夫が言い、彼女は家に戻った。
しかし、彼女は朝ごはんを食べた記憶もない。と、いうことは朝から無意識で動いて
いたということだ。
弁当を頼まれていた嫁が、弁当の入った袋を提げて家に戻ると姑が居間の上がり口の
土間に膝を抱えて座り込んでいた。
それは、しっかり者でいつもシャンとしている何時もの姑の姿ではなかった。
「お母さん、どうしたんですか？」
「あたし、どうしちゃったんだろう、何を持ってるの？」
「お弁当です」
「何で、お弁当なんか持ってるの？」
「お母さんに頼まれたからじゃないですか」
「あたし、頼んでないよ」
「えー、頼まれましたよ」
「あたし、どうしちゃったんだろう」と彼女は首をかしげる。
そして、
「何持ってるの？」と、前と同じ質問が延々と繰り返されることになった。
「病院に行きましょう」
「どうして病院にいくの？」
「着替えましょう」
「どうして着替えるの？」この問答も延々と続いた。
病院に行ってМＲＩで検査したが、脳梗塞や腫瘍その他の異常は見つからなかった。
その日は病院で一泊してきたが、帰りに診察を受けた時、彼女はその医師を何処かで
会ったことがあるような気がしたという。
それは丁度、昔の忘れかけてた知り合いに出会ったような感じだったという。
後で考えてみると、前日に診察を受けた医師だった。
一時的に記憶のなくなった原因は特定出来ないと医師は言ったらしいが、私は疲れと
ストレスだと思った。
彼女は責任感の塊、身を粉にして働くという言葉は彼女のタメにあると言っても過言で
はない。何年か前には帯状疱疹もやっている。
因みに私もやったが、アレも疲れとストレスの部分が大きいと思う。
彼女は、記憶もないのにどうしたのか、病院内から電話をし、台風が近づいて心配し
ていた稲刈りを、夫一人では無理だからと知人の手を借りて行うように指示し、
彼女の記憶のないところで無事終わっていた。
帰宅した日も仕事の服を着ている彼女に「どうしたんですか？」と嫁が聞くと
「大丈夫だから、出来るから」と畑に出る気でいた。
知人に、「休むと身体が疲れていることに気が付いてしまうから休まず動かすんだ」と
いう人が居る。
自分の身体に対して失礼なやっちゃな。と思うのだが、私にも同じ要素がある。
知人の父親が新聞店に勤めている。
新聞休刊日、彼女の母親から電話が入った。
「お父さんが、おかしくなっちゃったのよ」慌てふためいた様子の母親に彼女が実家に
行くと、父親が居間のテーブルの前に座り込んでいた。
彼女の顔を見た父親が、
「ミツコよ、今日は何曜日だ？」と聞いてきた。
「今日は月曜日よ」
「お父ちゃんは、何で此処に居るんだ？」
「今日は新聞休刊日だからよ」
「あーそうか」
そう言ってすぐに、
「ミツコよ、今日は何曜日だ？」と聞く。
そして、同じセリフが幾度となく繰り返されることになる。
母親は「ほら、お父ちゃんおかしいだろう！」とそこに口を出す。
「お母さんは黙っていてちょうだい」と彼女は言ったが、どうしていいか分からない。
それから、両親を連れて近くの博物館へ出掛けた。
中にあるレストランで食事をして帰宅する頃には、父親は落ち着いてきた。
そして、父親はまるで何もなかったかのように、日常生活に戻った。
「全く、人に心配させて知らん顔なんだから」と母親は怒っているが、父親はその時間の
記憶がスッポリ抜け落ちているらしい。
「何だか気持ちが悪い」と父親は言うが、誰もそのことに触れないので本人も触れない。
でも、それがあってから彼女の父親は、脳ドックの検査に頻繁に通うようになった。
彼女の父親を知っている。
ちょっと細かくて説明が長いが、責任感が強く我慢強く、どういう人に対しても失礼な
ことを言ったことがない。
分かっていることでも断定をしたことがなく、それを歯がゆいと奥さんは言う。
疲れると目をシパシパさせながら、それでも周りに気を使う。
あー、彼もやっぱり疲れとストレスだよ。と思った。
因みに、この一時的な記憶喪失は、再発が殆どないと聞いた。