キルリアン写真

 

 キルリアン写真についてのメモ書きがあって、私はそのことが書きたくてずっと気に

なっていた。

 

 でも、その話の前に、先ずはキルリアン写真について説明する。って、書きながら

エラソウな感じじゃねえの。って思ったんだけど、そうじゃなくて、家人が言った。

「あんた、あんたは何を話すんでもオレがそのことが分かっていることを大前提で知って

いて当たり前みたいに喋り出すけど、それが何なのかを知らないことが多いからな。

あんた、自分の話を聞いてもらいたいって思うんなら、先ずはそれがどういうことなのか

説明をちゃんとしてからにしなよな」という言葉に、そーかぁ。って思ったんだな。

 

ということで、キルリアン写真について自分の記憶が正しいかどうかをネットで調べ

ながらまとめ始める。

そこには、1939年にキルリアン夫妻によって発明された写真撮影で、レーニン勲章

を授与された。と書いてあるものと、

セモン・キルリアンとバレンチナ・キルリアン兄妹によって発明された。と書いている

ものがあった。

 まあ、私にとっては、それはどっちでもいいことなんだけど、要するに、その写真は

生物の被写体を電場に置き高電圧(3万ボルト)と高周波(3000Hz)の電圧を

かけた中でその物体から出る光をフィルムに撮る。

 そうするとコロナ放電といわれるボワンとした輝く光が映る。

それが生体エネルギー、オーラだというのだ。

 

キルリアン写真は科学の世界からは懐疑的に見られている。らしい。

でも、怪しいとされていることが好きというか、興味深々のワシ。

 ここのメモにあるのは、キルリアン写真で出た結果。

キルリアン写真と言えば定番になるのが、ファント・ムリーフと呼ばれる葉の一部を切り

取って写真に撮ったもので、切り取られてなくなった部分も元の形状を示しているものだ。

 でも、その切り取られた部分まで写るのは、撮影された何百枚の何枚もない。

その為に、それは科学的に認めることは出来ないといわれている。

 

 まぁ、キルリアン写真は生体からの水蒸気発散を捕らえることが出来るということが

分かって、1999年の10月、ロシアの南部にある腫瘍科学センターで275人に

行って、85%の確率でガンを発見している。

 

 そして、メモにあるのは、亡くなった人の指を撮影した実験結果。

亡くなった人の指先を当てて撮影すると、光の粒が丸いリングの形で写る。

 それは、時間が経つに連れて弱まり消えて行く。

それが消えたのが、自然死の場合、36時間。

事故死の場合、3日。自殺の場合、1週間。

 

 キルリアン写真に写しだされるこの光の粒みたいなのを、西洋ではオーラ、東洋では

気、インドではプラーナと呼ばれる。

このモノは科学的には、いまだ明確に照明することが出来ていない。

っていうけど、気が強い弱いから始まってやる気だの元気、気品だの気位が高いなんて

日本では当たり前として使われているよね。

 

 医学用語では、癲癇(てんかん)の発作が起きる前の患者に、ある感覚や感情が引き

起こされることがあり、これをオーラと呼ぶことがあり、体温変化、パニック、めまい、

異味、異臭など、関連する脳の部位によって診断の情報の手掛かりになる。らしい。

 でも、脳の中ってのも、殆ど解明されてないんだよね。

 

 だから、「オメーは何が言いたいんだよ!」  と、思われる方もいらっしゃるでしょう。

そー、ワシは、何が言いたいのかつうと。

 科学や物理では解明出来ていない所に、普通の人には見えない所に大事なことが隠れて

いるんじゃないか。と、感じている。

 金だの名声、便利だの合理的だのを優先して、遠回りやリスクを嫌い、人を蹴落とし

最後まで責任を持って出来ないことに手を出す。そういう、道理から落っこちた生き方は

何かが、輝いていない。

 んー、言葉にするとちょっと、違ってきちゃうんだよなぁ。

 

 形でなく、人は本当の意味で幸せ(輝く)にならなくちゃならない。と言ったら、

それは、「オメーに関係ねえべ!」   と、思う方がいらっしゃるかも。

 こんなことを書くと、寿玄夢はおかしい。ってことになるんだろうけど、いいもーん

書いちゃうもーん。

 私は、子供の時から人に憑依を感じてきた。

子供の頃は、憑依という言葉を知らずそういう人と出くわすと(あ〜あ、仕方ないなぁ)

と思っていた。

 そういう人は輝いていない、曇ってるんだ。

そして、人を曇りに巻き込む。

自分の考えがなく、人に聞くけど人の話は聞かなくて、イヤなことは誰か、何かのせい

にして逃げる。

 弱いものをイジメ強いものに媚びる。媚びるが尊敬や敬意を持つことはない。

自分を卑下し、そういう自分と関わるものを敬愛することが出来ない。

 自分と異なるものを否定することが、自信のつもりでいる。

 

 憑依の人が言う言葉。

「何でこんなことになっちゃうんだろう」「自分じゃないみたいな気がする」

「こんな筈じゃない」「分かんないけど、いつの間にかやっちゃってるんだ」

「これは自分じゃない」「我慢できない」と感情を露わにする。

 

 最近、そこから足を洗って卒業していってる人と、更にそこに染まっていっている人に

会うが、ハッキリ分かれてきている気がする。

そこにどんな違いがあるのか。

足を洗う人ってのは、何とか自分の目で見て、自分で考えようと頑張っている。

 間違いながらも何かを始め行動を起こしている。

大きな変化は、言い訳を止めた。

憑依から解き放れ自由になるには、何より本人がその気になる。ってことかね。

 

 キルリアン写真の話から脱線したみたいだけど、生きている時に輝くってことは、

未練なく旅立って、あの世でも輝くってことじゃないだろうか。

 

 ところで、オーラって生まれながらにその人の色で、強くなったり弱くなったりする

ことはあっても指紋みたいに一生変わらないんだって?

 そして、指紋みたいに耳紋とか臭紋、瞳の形状、静脈の通り方なんかも全ての人が違う

形をしていて同じ人は一人も居ないんだってね。

 スゴイねー。

 

 

 

 

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