子共のしつけ方、教えます1

 

 スゴイ題名だねぇ。

何でこの題名にしたか、っていうと、私がぞっこんの犬のカリスマトレーナーの表題が

“犬の気持ち分かりますか? 犬のしつけ教えます”で、そこに出てくるシーザーに

尊敬とあこがれの気持ちで、自分もそういうことしたいと切望してこの題名にしたわけ。

大体が、自分も子育てに失敗を重ねてきて。っていうか、しつけ出来てんの?

だのに、「教えます」ってどゆーこと!?って感じ。なんだけど、だからこそ書きたいん

だな。

 私が書きものをしたい理由の一つに、子供の気持ちの代弁。が、ある。

それは、普通の大人とか子供じゃない、大人でも子供でも、その中に住んでいる子供の

気持ちをくみ取って代弁したいんだ。

そして、それを育てる方法をず〜っと考えてきた、それを教えたい。

今回は、“子供のしつけ方”を通してそれを書こうと思う。

 

 

 山小屋に子供(2歳)を連れた親がやってきた。

私は「いらっしゃーい」と山小屋の上から声を掛けた。

以前から山小屋の上にあるメダカ広場を子供に見せたいと言っていた人だった。

すると、「いやー、いやー!」という子共の声。

 上から覗いて見ると母親が、叫んで暴れる子共(2歳)の靴を無理やり脱がせて横に

抱えて階段を上がろうとしていた。

「こんにちは〜」と声を掛けると、

「ほら、こんにちは、は?!」と彼女は泣いてワケが分からなくなっている子に言った。

 

 ここでの間違い。

初めて来た場所で何の説明もなく、突然靴を脱がす。

それに抗議して泣き叫ぶ子を横抱きにして、階段を上ろうとする。

パニックになっている子に、挨拶をさせようとする。

 

 では、どうしたらいいのか。

どんなに小さい子(2歳)であっても、一人の人間として接することだ。

 新しい場所に来て、更にその子に緊張が見られたら、大人がリラックスして説明をする。

ここで間違いやすいのが、説明してあげるんじゃない。

大人の責任ある行動として、説明する。

それは、説明して“あげる”などというベタベタしたオマケの行為でなく義務であり責任

であり権利だ。

「ここはね、ママのお友達が面白いことしてる所なんだって。

入ってみる?」

「うん」

「お二階があるんだよ。上がってみる?」

「上がってみる」

「そう、じゃ、こんにちわー」この「こんにちわー」は、勿論家主である私への挨拶だ。

それから「おじゃましまーす」と、階段を上がる。

大事なのは、追い立てないことだね。

 子供なりに考えて前に進もうとしている。

パニックになったり、気持ちが荒れている時は、落ち着くまで待ったらいい。

 それから動いても遅くはない。つうか、待たなければならない。

 

 子供が落ち着いて、感受性が豊かに育つこと。を求めるなら、先を急いで子供の気持ち

を置き去りにしないことだ。

子供が何かに興味を持って見ている時に

「ほら見てごらん」「面白いでしょう」と自分の方に気持ちを向けさせる大人が居る。

じっくり観察して考える子供にしたかったら、子供の気持ちに立ち入ることを止め、

大人は大人でリラックスすべきだ。

人をリラックス、安心させたかったら、自分がしたらいい。

挨拶は、自分がする。

それはして見せるんじゃない。見せる為にする挨拶なんて、相手に失礼じゃろ。

「ほら、有難うは!?」「ほら、こんにちは。は!?」と子供に言ってる人って、自分は

言ってなかったりする。

 子供ばっかり見てると、自分のやることがおろそかになっちゃうのかな。

 

子供時代に安定、安心のないまま大人になると、人(配偶者、子供、友人知人など)に

緊張するようになるらしい。

そして、緊張は支配欲、独占欲となっていく。んだってさ。

 

 穏やかで信頼出来る大人の下で安心して育った人というのは、ビクビクしない。

疑心暗鬼になることが少なく、自分を否定することが少ない。という。

 そして、子供を育てる時に特別意識しなくても自分が育った時と同じように、落ち着い

て子供に接することが出来る。

そして、その子供も安定して手の掛からない人になる。ってんだから、ズルイよね。

 

 感情的な親(大人)に管理され、口出しされ、追い立てられるようにして育った人は、

常に何かに脅(おび)え、落ち着きがなく、人の顔色を窺(うかが)う。ようになるか、

 若しくは、自信のなさを支配と断定で乗り切ろうとして子供にも、友人知人、配偶者に

も管理的になって、押し付けがましいことをしてしまうことになる。

 

 だけど、それに気が付いた時、人は生まれ変わることが出来るんだぜ。

自分が子供にとって信頼出来る、安定した安心出来る人間になることと、自分の中の

子供を育てることは同時に始められる。

 

 ということで、ここで、解決策と行こう。

簡単なんだよ、原理は。

難しいのは、それを行うこと、諦めずに行うこと。

で、行うことは、イメージと行動。

毅然(きぜん)とした、穏やかなオーラ。をイメージする。

安心して安定していくこと。

感情的にならず、リラックスすること。自分をコントロールすること。

しつけは理性で行い、怒りは感情である。ということを知る。

 

 あわてなくていい、大丈夫だから、落ち着いて、考えて、行動すればいい。

 

 今までのことは、終わったこと。

大事なのは、今とこれから。

 過去の恨みや、心配不安、自分を否定するクセに囚われることはオシマイ。

誰もあなたを責めたり追い立てる権利はないし、そんな者は居ない。

 若し居たとしたら、それをしているその人が自分自身を追い立てている八つ当たりだ。

それさえも、あなたが安定することで状況をコントロールすることが出来るようになる。

毅然とすることで、その場を治めることが出来るようになる。

 

 そう、出来るというイメージ。

 

 人は誰でも“心の安定を求めている”それこそが、真の幸せだからだ。

 

教育の最終目的は、幸せにすること。だという、そして心の安定が真の幸せだという

なら、教育の目的は、心の安定ということになる。

 

「最終的に自分を助けるのは、自分」と、ある駆け込み寺に張り紙があった。

 

しつけに感情はいらない。理性で行われるから。

「これはダメだよ」と教えればよい。

怒ることと叱ることは違う。

叱る時、イライラしてはならない。

むかむかして感情をぶつけている時、しつけは出来ない。

感情のコントロールをすることは、自分自身の問題だ。

自分の問題(不安、苛立ち、緊張、焦り)は、違うものにすり替えたり八つ当たりせず

ちゃんと向き合って理性で乗り越える。

子供を理性で育てる時、自分も育つことになる。

 

 子供を理性と愛情で育てる時、自分の中の子供も育ち、心が育っていく。

子育ては、自分自身の育てなおしでもある。という。

そう言うと、私は結婚していない、或いは子供が居ない。と言う人が出てくる。

なーに言ってんですか、世界中に子供が居る。それは、あなたの子だ。

それに、子供だけが子供じゃないって言ってんでしょ。

大人の中にも子供が住んで居る。

それは特定の人だけじゃなく、どの人の中にも子供は居る。

その自分の中の子供を育てることで、人は育ち、人を育てることが出来るようになる。

安心して尊敬できる人になることで、周りも安定していく。

 

 おまけ。

この話をすると、自分だけじゃなく、夫にも変わってもらおう。妻にも変わってもらおう。

と、自分がまだ始めてもいないのに家族に話す人が居る。

 大体そこで喧嘩になる。

やったら良いと思うことは、人に求めず、先ずは自分が始めたらいい。

 それを人に要求するというのは、人の領域に入らないという基本ルールの違反。

ましてや、まだ自分がやってもいないのに、まるで分かったかのように話せば反感をかう

のは当たり前。

 

 先ずは、人に求めず、自分が行う。

 

 しつけるのは、先ずは自分から。

 

 

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