メダカの教室

 

 小学生の子供にメダカを観察させたいのでメダカが欲しいという人がいる。

それは、親だったり教師だったりする。

 ワシは、勉強させるために何かを与えるということを基本的に好ましく思っていない。

それは、飼うことが悪いといっているのではなく、何かを飼うとか、観察するというのは、

飼うなり観察する者本人の中から出てくる、いってみたら欲求みたいなものが基本で

それが一番大事な気がするからだ。

 その観察したい知りたい欲求欲望に火を点けるのが親なり教師なりの役目であって、

勉強観察の為に生きものを簡単に与えることは、子供の深い所にある欲望が目覚めること

なく、だから決して満足することなく、興味本位にただいじりまわして殺してしまう

ような浅い所にある欲望を野放しにする危険を感じる。

それと、子供が観察するということを知っていない。手を出さずにじっくり観察する。

ということが出来なくなっているように感じる。

 これは、他所の物でも何でも矢鱈と触らせてきた幼児教育と、子供が何か見たり、聞い

たりしている時にそれを黙って見守らなかったことからきているんじゃないかと、ワシは

思うとるんじゃ。

危険な物でも動植物でも、無防備に手を出す子供が多い半面

「大丈夫だから触ってごらん」と言っても尻込みしてしまうか、

怖がることで自己アピールをしているように見える子供。

矢鱈触る子供は、落ち着きがなく、自分のことだけを喋り、黙って人の話を聞けない。

この傾向は、子供だけでなく大人にメダカを見せた時にもよくある。

見たことをペラペラと観察レポートでも書いているかのように喋り、人の話を聞かない。

目の前にある物(メダカ)をじっくり見るということをしない。

気持ちのいい風が吹いていても、今だけの季節の風景が目の前に広がっていても、

暑くていやだ、寒くていやだ、雨が降ったらどうするの、春になったら気持ちがいいで

しょうね、と、今を見て味わうということをしない。

 これらのことは、教育の原点が分からなくなっているから起きているんじゃないかと

ワシは思ってきたが、納得のいく本を見つけた。

スタン・バディラがまとめた「最初の教え」ネイティブアメリカンの知恵と祈りの言葉。

 

その教えに

<最初に幼子に教えるもの>として、

“沈黙”“愛”“尊敬”とあり、この三つはひとつであり、子供に教える最初のレッスンの

根幹である。とある。

 この基礎の上に、のちのち“寛容”“勇気”“純潔”を加えていくのだという。

そこには、「母親が、教えるものとして」とあったが、昔のインディアンの教育係は、

その教育を受けた祖父母がするものだった。

でも、現在の日本が子育ての危機迷低の時代となり(自分も含めて言っているからね)

これらの教えを実祭に行う義務が生じたのは、そのことを知るすべての大人の役目に

なったんじゃなかろか。とワシは思う。

 

 ワシが、メダカをあげた時に大人が言う。

「オジチャンが、大事に可愛がってるモノを貰うんだから大事にして、よーくお世話する

のよ」

この言葉に、三つの違和感を感じる。

 

<一つ>

ワシは、初めてあった人にろくな挨拶もなくオジチャンと言われる覚えはない。

親しみを込めて言ってるつもりなのか知らないが、親しき仲にも礼儀あり以前の問題で

親しいわけでもなく、無礼に感じた。

ワシの友人でグループホームに入ったヤツが、年の変わらない男(お偉いさん)に

「オジイチャン長生きしてくださいね」と言われ「オジイチャンおめぇもな」と言った

と聞いたが、そいつは矜持(きょうじ、誇り、自負、プライド)のあるやつだった。

 

<二つ>

大事に可愛がっているモノを貰うんだから、大事にするのよ。

大事にされているから、されていないからではない、どちらでも大事に大切にすべきだ。

 同じ理由で、「あなたを愛してる人がいるから命を粗末にしてはならない」というセリフ

が嫌いだ。

その人を愛してる人が居ても居なくても、命を粗末にしてはならない。

メダカに高いヤツと安いヤツが居る。

高いメダカだから大事にするという考えは、恥ずかしい。

形態の違いはあるが、命には、何の変わりもない。

大事にされていても、されていなくても、命に変わりはない。

 

<三つ>

よくお世話するのよ。と言う大人は多い。

大事にするんだよ。もよく聞く言葉だ。

そう言ったからといって、子供の行動が変わるとは思えないが、ちゃんとした大人に

見られたい人は、取り敢えず教育的な言葉を発さないと不安なのか、場が持たないらしい。

 だけど、本当の意味で世話をする、大事にするとはどういうことかが分かっておらず

そういう人に限って、ただ手出しすることが、世話だと思い込んでいて水槽を洗い、水を

変えてメダカを殺す。

 

ワシがずっと感じてきたのが、自分の面子の為に子供に言葉を掛け過ぎる、手を出し

過ぎる大人が多い。ということだ。

子供が何か熱心に観察していると、「何見てるの?」「あれ、これ〜だね」と話し掛ける。

それは、子供の興味に水をさし、子供の意識を観察しているモノからグイと聞かれたこと

や答えることの方へと向けさせる。

それが度重なると「うるさいなぁ」ということになる。

自律していない大人は「親(大人)に向かってうるさいとはなんだ」と憤ったりするが、

何故その言葉が出たか考えてみたらいい。

 大人が子供に与える最高のプレゼントは、沈黙。

子供が観察している時、考えている時、安心して存分にそれに没頭出来る時間を与える

ことだ。

 落ち着いた大人は、それだけで尊敬に値する。

 

 話変わって、

「自分も育っていないのに、子供なんか育てられない」という人が居て、

そうかなぁ。と思った。

 子供を育てながら、自分を育て、自分も一緒に育つ。

自分が出来ているから教えることが出来るなんていう人は、専門家でもない限り寧ろ少な

いんじゃないだろうか。

 大人はすべての専門家にならなくていいと思う。

分からないことは、分かる人に聞いて一緒に考えたらいい。

 出来るつもりで出来ておらず、失敗を重ね、七転八倒で生きているのが人間なんじゃ

なかろか。(ワシはそうだ)

 

<この大地の上で>

人間家族だけが聖なる道を踏み外してしまっていることを、われわれは承知しています。

と、ネイティブインディアンの最初の祈りと教えにある。

 道を踏み外している。と気が付いていることが、大事なんじゃないだろうか。

 

 ここまで、分かった風に否定的なことを書いたが、否定はそうでなくなる為の別の道を

見つける為の違和感だと思う。

 何だかイヤだと思うのは、ただの保身である場合もあるが、お知らせなんじゃないかと

ワシは思っている。

 

 メダカを欲しい子供は何も言わず、横で大人だけが喋る。

メダカの飼い方を説明していると、「ほらよく聞きなさい」「よく教えてもらいなさい」

という大人(親、教師)の声で、ワシも子供も集中出来ない。

「聞いたことをメモしなさい」なんて言う人もおる。

 あー、いやだなぁ。と思う。

 

 じゃぁ、どうなったら気分がいいか。

大人は口出しせず、子供が自分の意志でメダカを貰いに来たらいい。

 メダカを飼いたいと思ったら、子供は自分で動き出す。

大人は、「メダカを飼っている人が居て欲しい人にくれるらしい」とだけ教えればいい。

本当に飼いたいなら自分で聞いてくるし、メモなんか取らなくたって頭に入る。

 

 今回は、読んだばかりのインディアンの教えで締めにするか。

<恩恵>

 与えられたすべての恩恵にたいし、われわれは感謝する。

たとえば、水を飲む時、必ずありがたさで心が満たされるのを待ってから、

水を口に含むようにしている。

 

<間(ま)を与えよ>

 考えるための間、会話を始める前の間、いきなり質問したり答えをせかしたりせず

先ずは、考えをまとめるための間を与えることが、会話をはじめたり、

場をしきったりする上での、真に礼儀正しいやりかたである。

 

 あー、こりゃワシの課題だー。

 

 

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