三日坊主

 

 ワシってすげえな。と、思う。

三日坊主にもなれない、ちゅうかならないんだな。

 取り敢えず、つまらない話でも毎日書いて載せるか。と、思ったんじゃが、このパソ

コンに辿りつけず言いたい放題の書き込みさえしない有様、有りよう。

 まっ、ぼちぼち出来る時にやるか。

 

 最近のブーム。

歎異抄。

 2001年に死にかかっていた時、布団の中で必死で読んでいた、読み返していたのが

歎異抄だった。

 あれは何回読んだかな。読んでも読んでもその度に分かった!と思いこむ時と、えっ、

こんなだっけ?と分からなくなる時があって、今に至っている。

 最近のテレビで歎異抄を読むってのがあってまた読み直したり、その解説を聞いたり

して夜明けに“あ〜そうか”がやってきた。

 ワシは、考えて、考えて、考え続けていると夜中に何か答えが現れることがある。

そういう時のワシの反応は“あ〜、そうけぇ”という納得と、腑に落ちる感覚だ。

 

 歎異抄の悪人正機(あくにんしょうき)。

仏教で悪人こそが往生する(教えを受ける権利がある、救済される)にふさわしい人間

である。という解釈。

 善人だって助けるのだもの言うまでもなかろう悪人を…、は当然至極のことだ。

これって、聖書で「貧しき者、病める者、迷える者は幸いである。その者の為に天国は

存在しているのだ」ってなことを言っているのと、同じ意味のことだと思ってきていたが、

そこに、もうひとつ追加の納得が起きた。

 そこに、辛い人こそが救われる。という図式を感じていたのだが、

“善人なおもちて往生をとぐ”の言葉にポーンと腑に落ちることがあった。

 悪人(辛い環境、罪を犯した者、自分が善人だと思っている者)だろうが、

善人(恵まれている環境、罪を犯していないと思っている者、自分は善人だと思って

いる者)だろうが、同じに救済され往生をとげる。

 迷える者は幸い(天国に続く道を歩く)んだろうが、生きているということは一時も

止まってはいない。迷う時あり、迷わない時あり、シアワセを感じる時もあれば、絶望

の淵に立つ時もある。

 そのどちらも人の中にはあって、どちらが良い(善)とか、悪い(悪)であるのとかと

いうことでなく、まぁ“往生をとぐ”ことになるんだなぁ。

 

 親鸞聖人が80を過ぎてから自然法爾(じねんほうに)ってのをまとめた。

この自然(じねん)っていうのが、自力じゃない湧きあがる押さえようのない力みたい

なもんで、ルソーが書いたエミール(子供が育つ原則原理)の中に出てきた自然先生と

同じものを感じた。

 自然先生ってのは、子供が育つに必要不可欠な三大先生の一つで環境先生、人間先生、

とは違ってその子供(人間)の中から湧きあがる温泉みたいに吹き出す力のことで、ボル

ケーノ(溶岩)のようなもののことだ。

 自分の意志、自分の力で生きていると思っているが、実は生かされて、何かの流れに

乗って突き進み突き動かされている。のかもしれない。

 だからといって、自分に責任がないわけではない。

まぁ、責任がなかったとしても背負のも、それを背負っていくのも自分で自分しかない。

 

 面白ぇなぁ。

 

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