ミミちゃん

妊娠

ミミちゃんこと、川上ひとみがその母親聡子の腹に宿ったのは、昭和21年生まれの

聡子が三十八歳を迎えた年明けの春だった。

聡子は長男が中学入学を間近に控え、長女は十歳になったばかりで何かと慌しく、

疲れて風邪でもひいたのだとばかり思っていた。

風邪をひいての悪寒だと思いながらも、なぜか風邪薬を飲む気になれず、病院に行き、

その時初めて妊娠を知ったのだった。

三度目の妊娠でそれはないだろうと言われたが、聡子の中に全く妊娠の考えはなく

その事実がとても不思議なことの様に感じていた。

それは、最初の子の時も二番目の子の時にもなかった感情であった。

妊娠を医者に告げられ、聡子は一瞬、腹にいるというその子を産むかどうか迷った。

家に戻った聡子は、帰宅して来た夫信夫に妊娠の事実を告げると共に、そこにある迷い

を伝えた。

「君がどうするか決めたらいいよ、僕は何でも引き受けるよ。」と信夫は言った。

 

聡子は、高校の時、肺結核を患い、二つある肺の一つを切除する手術を行っていた。

肺も詳しくいうと、一つが上葉、中葉、下葉とあって、肺を取ったといってもその一部

だけであることが多い、それが一部だけでなく片方を丸々取ってしまうということは、

当時として大手術であり、周りの者達は結婚もましてや子供を生み育てることなど

不可能だろうと思っていた。

そんな聡子に「僕が一生、面倒をみるよ」と臭い台詞を吐いて一緒になった信夫だった。

それが、三人目の子を授かったのだ。断ったら神様に申し訳ないような気がしていた。

 

そして、ひとみはその年の十一月、小春日和の昼に生まれた。

    

聡子

大正生まれで、戦争体験者の聡子の母親は、

「命さえあったらどうにかなる、きっと道は開ける。」が口癖の人だったから、

聡子が肺を片方取る手術を受けることになった時も前向きだった。

当の聡子も、長引く入院と手術の面倒さ、痛みには文句を言っていたが、そう深刻になる

こともなくその一年をやり過ごした。

聡子はもともとが暢気なたちらしい。

それまで、ずっとまじめに生きてきたが、よし不良になってみようと思い立ち、電車で

街に出掛けたが、そこで始めて、自分には一日街をうろつくだけの体力がないのだという

ことに気付かされた。

それに気付いた聡子は、可笑しくなって笑った。

幼い頃から病弱だった聡子が、ふと思い出す情景がある。

木造で平屋だった小学校は、児童数が三百名にも満たない小さな学校だった。

休み時間になると、校庭を走り回る子供の姿があった。

いつも聡子はその中にはおらず、夏は木陰に、冬は日当たりの良い板塀を背に、

走り遊ぶみんなを見ていた。

のんびりとした人と争うことのないというよりは、それだけの気力も体力もなかった

子供時代であった。

聡子の育った家は、終戦によって満州から日本に引き上げてきた両親が、父の実家で

ある田舎の土地を分けてもらい、なけなしの金と借金で始めた店商いをしていた。

古い家の土間の部分に古材で棚が作られ、商品が並べられた。

すべてが不足している時代だった。

幸い近くに店らしい店はないことから、東京生まれの母親が仕入れてくる小間物や生活

日用雑貨、食料品は特によく売れた。マヨネーズなども売れた。

誰もみんなが、必死で生きた時代だった。

聡子の家も貧しかったが、現金が入る商いは友人たちの憧れの的であった。

しかし、そうはいっても当時現金で物を買う家は少なく、つけで買っていく者が、

殆どであった。

つけは月末にまとめて支払いに来ることになっていたが、それも遅れがちで、ついには、

大晦日に集金に行くことになるのだ。

不思議なことに、お金を請求する日も支払う日も決まっていて、その日が過ぎてしまう

と支払いは次の支払日まで先送りになった。

そして、支払いがなかったとしても何時までもぐずぐず言ったり、のべつ幕なしに請求

するという事はなかった。

暗黙の裡に了解されていることがあり、シキタリがあって伝票にサインすることもなく

見えない信頼関係が存在していたのだと思う。

言っても無理なことは我慢するか諦めるしかないことを誰もが知っていた。

当時の大人たちがよく「ない袖は振れない」と言っていたことを聡子は思い出す。

現金のない者は、自分の所で作った野菜や米を持ってきて品物と交換していった。

幼い聡子にはよく分からなかったが、物々交換の方が多かったのかもしれない。

本当に貧しい時代だった。

ないということは、そこからは、何も生み出せないということである。

本当に食べるものがなくなると種芋にまで手をつける。

そして、生み出すものもなくなるのだ。

聡子の家も決して楽な暮らしではなかったが、早朝、黒くすすけた雨戸をガタガタ

いわせながら開けると、小学校に入る前位の子供が立っていた。

当時ニコヨンと呼ばれた日給240円の日雇い労働者がいた。

ニコヨンの親が聡子の家に子供を置いて仕事に出かけたのだ。

すると、聡子の母は当前のようにその子にご飯を食べさせ、仕事をさせた。

夕闇の深まる頃になると仕事の終わった親が、子供を迎えに寄り、暗くなった田んぼ道を

子供を連れて帰っていく。

あの頃は、世話をする側も、される側も自然で何の気負いも感じなかったと聡子は思う。

しかし、そこには感謝といたわりの気持ちが感じられた。

決して裕福でなかった聡子の家だったが、聡子と四つ違いで生まれた弟に、子守の子が

来ていたり手伝いのおばちゃんが居たりした。

誰もが働く場所がなく、安い賃金でも働けるところを探していた。

ある時、家の裏に行くと、子守のお姉ちゃんが弟をオンブして小さな声で泣いていた。

何時も元気なお姉ちゃんだった。

聡子は見てはいけないものを見てしまったような気がして、急いでその場を離れようと

した目の端に、弟を強く揺すり上げるお姉ちゃんの姿があった。

幼い頃の思い出は、甘く切なく懐かしい。誰もが何らかの事情を抱えて生きていた。

その時は分からなかったことが、後になって謎が解けることを聡子は知った。

 

ひとみの名前は生まれた時にその一重まぶたのつぶらな瞳が可愛いと、思春期に入り

生意気になってきていた姉の幹子が、ひとみと名前を付けた。

幹子は、信夫が木の幹のように太く、年輪のように年を重ねていってくれと言って

付けた幹子という名前が気に入っておらず、信夫の考える子が付く名前にことごとく

反対してようやくのことで“ひとみ”という名前に決まったのだ。

ちなみに長男の鉄男は、誰一人反対するものがいないなか「鉄は熱いうちに打て」と

いう信夫の一言であっさり決まった。

ひとみは手のかからない子だったので、誰がみていても楽で、幹子がよく面倒をみた。

幹子は、自分が付けたひとみという名前が気に入っていて「ひとみちゃん、ひとみちゃん」

と必要以上にその名を呼んだが、いつの間にか「ミミちゃん」になった。

外の者もそれに習ってひとみは、ミミちゃんと呼ばれるようになっていた。

みんなの愛情を一身に受けながらもひとみは、首がすわるのが六ヶ月を過ぎてからと

遅かった。

寝返りも1歳の誕生日を迎えるころにやっと出来るようになった。

それも、周りが手助けをしているので、それが出来たといっていいものかどうか怪しいも

のであった。

ひとみは、1歳の誕生日を過ぎても足腰がしっかりせず、つかまり立ちもまして歩く

様子などなかった。

1歳と11ヶ月でやっと立てるようになり、歩けるようになったのは2歳を過ぎてから

であった。

聡子が心配して病院に行くと出産時のことを毎回聞かれたが、分娩には異常はなかった。

定期健診でも相談してきたが、一定の時期が来ないとはっきりとしたことは分からない

といわれて2回目の年が明けた。

友人に相談すると

「知り合いにも同じように発達が遅い子がいたけど、今は何でもなく育っているわ。

子供って個人差があるんだから大丈夫よ。心配しないで。」などと言われ、

その時は少し安心するのだが、すぐにまた不安の影がやってくる。

それは、どうしても消すことが出来ずその色を濃くしていった。

 しかし、後になって思うと母親の勘で、本当は分かっていたような気がする。

ひとみは、手のかからない子で、訳もなく愚図ったりむずがるということがなかった。

色白のポッチャリとした顔はいつも穏やかで、微かに微笑んでいるように見えた。

「可愛いお子さんね」とよく言われたが、それはまんざら社交辞令でもなくひとみは

本当に愛らしかった。

そんなある日、はっきりものを言うことで有名な知人が、「可愛い子ね」の後に

「こういうのを白痴美人っていうのよね」と言った。

その人に悪気はなかったのだろうが、その言葉は聡子の胸に突き刺さり、抜けない棘と

なって残った。

病院通いが、始まったのもその頃からだった。

病院に通ってはっきりと分かったことは、いくら病院でも分からないことがある。

ということだった。

そして、そこで何度も言われた言葉は、「お母さんの育児ノイローゼではないですか」

だった。

 

総合病院

ひとみが生まれて二回目の正月が過ぎてから、以前に何度行っても埒があかなかった

総合病院へ行った。

病院での検査の時、ひとみは全てを覚悟し分かっているかの様に大人しかった。

早春、聡子は検査の結果を聞きに行った。

その結果は、知的障害であった。

右側に少しかしいだ身体、それが障害をあらわしているのだという。

「やっぱり」と聡子は思いながらも、「これが夢であったら」と思う。

と同時にそれを陳腐なセリフだとぼんやり考えている自分が居た。

ここ一年は、若しかしてという危惧が次第に強くなり、そして…、やっぱりであった。

聡子は、自分は冷静だと思っていたが、駅に着いて帰りの切符を買ってポケットに手を

入れると、来るときに往復で買っておいた帰りの切符が入っていた。

病院で先生の説明を聞いた時も、自分はしっかりしていると思っていたが、

その後どの様にして病院の支払いをしたのかを覚えていなかった。

夕焼けがくすんでいくのを電車の窓ガラスに額をこすりつけるように見ながら、

(今日はひとみを母親に預けてきて良かった)と聡子は思った。

そして、今はただ早く家に帰りたかった。

 

すっかり暗くなった家の玄関へと続く生垣の小道を行くと、沈丁花が香った。

母親は、連絡の電話もない聡子の帰りを待ちかねていて聡子が玄関を開けるが早いか、

飛び出してきた。

「本当にあなたは!」と母親はひとみを抱いたまま興奮した時の癖である、甲高い声に

なっていた。

「どうして電話の一本も出来ないのよ、いちんちじゅう待ってるもんの身にもなって

ごらんよ」と下町育ちの江戸弁でまくし立てた。

それを聞きながら(母さんの強さには、かなわない)と、感傷的になっていた聡子も、

「ひとみの前で大きな声出さないでよ」と持ち前の芯の強さを取り戻していた。

まだ帰ってきていない夫に最初に話したいと思いながらも、茶の間に座る間もなく

溢れ出すように母親に病院での結果を話した。

母親は「やっぱり…」と言ったきりしばらく黙った。

そして、突然、自分たちが終戦当時に満州から日本に引き揚げた時の話を始めた。

それは、満州に工場を作り成功し、二十人以上の中国人を使うようになったころだった。

終戦の知らせを聞いた日本人たちは、ここに居ては危ない日本に戻らなければと、

家財道具を売った。

それは足元をみられ二束三文ではあったが金に換え皆青島(ちんたお)方面に向かった。

取り敢えずは上海に行けば日本に帰れる。何の確証もないが、皆そう思っていた。

「あなたのお父さんも、そうするんだとばっかり、母さんは思ってたのよ。

そしたら、夜んなって使ってた中国人たちを家に連れて来たのよ。

母さん、何が起きたのかさっぱり分かんなくて、一瞬殺されるかと思ったよ。

そしたら父さんが、何でもいいからみんな持っていけって、お前たちには世話になったか

らって、家の中に在るもん、その人たちに、みんなあげちゃったのよ。

母さんそれ見てて、ちょっとあきれちゃたわよ。

だって、逃げるときに頼りになるのはお金でしょう。なのに、父さんたら

その人たちに洗いざらいみんなあげちゃってねえ。そういう人なの父さんって…。」

と母親は、自分だけが父親を知っているかのように話す。

「でもね、父さん、その人たちに何の見返りも求めていなかったのに、青島から上海に

着くまでその人達がこっそりついて来て食べ物を差し入れてくれたり、寝る所を見つけて

くれたり、結局あの人達がいなかったら、あたし達今頃どうなっていたのか…。

あなたも知ってるでしょう、家の物置建てるったって、塀直すったって、父さん見積もり

なんてとったことないの。

金は天下の回りもんだ、儲けさせて貰うときもあれば、儲けて貰う時もあるんだって、

高いの安いの言ったことないよ。でもみんないい仕事してくれて…。

人助けするんだって、みんなに分かんないようにするような人なんだよ。」

ひとみとは関係のない話をしているうちに母親は落ち着いてきたのか、腕の中で眠って

しまったひとみを寝かせに行った。

父親の話しをするとき、自らを打算的であるかのように話す母親だが、聡子は知っている。

気が弱い癖に人のために突っ走ってしまう父を、文句を言いながらも一番父を認めている

ことを。

そして、その母も人助けをしては、

「アタシが何したって父さんは何も言わないから助かるよ」と言っている。

聡子が高校の時、当時としては不治の病といわれた肺結核になった時も、母親は同じ話を

したのだった。

そして、その時は最後に「アタシたち、何にも悪いことしてないのにねえ」と言ったの

だが、今回は何も言わなかった。

実家に一人で待っている父親に、ひとみを目に入れても痛くないほど可愛がっている

父親に、このことをどう伝えたらいいだろうと聡子は思った。

その時、電話が鳴った。

もう時間は九時をまわっていた。

ひとみを起こさないようにと急いで受話器を取ると、お菓子作りの仲間からであった。

「あ、川上さん大変よ」と緊迫した声は聡子の気持ちだった。

一瞬自分のことかと思ったが、そんな筈はないと我に返った。

「どうしたの?」

「高木さん今日亡くなったわよ」

「何、言ってるの? あたし二三日前に電話で話したわよ」

高木ケイ、彼女は聡子より六歳年下の32歳である。

彼女の住まいは、聡子の家から電車で一時間近くかかるのだが、お菓子作り教室で知り合

ってそのさっぱりとした性格と悪意のない明るさが好きで、教室だけでなく彼女の自宅に

も度々訪れていた。

彼女の性格そのままの家で飾り気も気取りもない、あっさりと風通しの良い家だった。

彼女には小学生になる娘が二人いた。

「今日亡くなったのよ」

「ウソでしょう?」

「殺されちゃったのよ」

なにがどうなっているのか、聡子は混乱していた。

間もなく帰宅してきた信夫に、電話で聞いた話と病院でいわれたことを一度に話そうと

した。

興奮して話す聡子に信夫は「分かった、明日ゆっくり考えよう」と言った。

 電話の話をまとめると、高木の家の南側に道路をはさんで瀟洒な家がある。

聡子も彼女の家を訪れたとき、おしゃれな家だと見た覚えがあった。

 その家の住人は、高木より二十歳程年上の夫婦が住んでいた。

奥さんは線の細い細やかな人のようで、遅く出来た一人娘が外国に行ってからは傍目にも

淋しそうだったという。

「その頃からきっと少しずつおかしくなってきていたんだよね」と話してくれた友人は

言った。

物静かで近所とも付き合うことのない人だったが、最近になって頻繁に高木の家に来る

ようになっていたという。

人が通ると家の中に姿を隠してしまうような人なので、最初は若しかしたら高木の方から

声を掛け誘ったのかもしれない。

 クリスチャンであった高木に「本当に信じたらキリスト様は助けてくださるの?」と

聞いたという。

 総てが高木と対照的だったその人は、高木が羨ましかったのだろう。

若さ、子供、人が集まり賑やかな家庭、お金の掛かっていない家までもが日当たりが良く

思えて羨ましかったと言ったという。

 その日、高木が夫と子供を送り出して間もなく、その人が来た。

テーブルの上は、朝の食事のままだった。

その時に高木が、何を思い何を感じたかは、今となっては誰も分からない。

 ただその時、高木はお茶を入れようとし、その背後から彼女が、持ってきた紐で首を

絞めた。

高木は、居間から外に這い出て新芽の出始める芝生の上で絶命していた。

 その後、彼女は電車に乗り県警まで行った。

ドアを開け入ってきた彼女はただならぬ様子であったという。

そして、高いはっきりした声で「私、今、人を殺してきました」と言ったという。

高木の夫と隣の家の夫は、部署は違うが同じ会社に勤めていることを後で知った。

その家族とそこに関わるものたちは、どう生きていくのだろう。

 聡子は、ショッキングなその出来事と自分のショックが重なったその時の思いが

沈丁花の香りを嗅ぐとよみがえってくる。

 mimi1.htm へのリンク