ミミちゃん4(二年生)

 特別に何事もなく流れていった時間より、矛盾を感じて不満と憤りの時にこそ

生きていたことを深く刻み忘れない。

それは、痛みのあるところ程その存在を主張するように…。

そういった意味の於いては、その一年は、聡子にとって一生忘れることの出来ない時を

刻むことになった。

 

ひとみは、二年生になった。

クラス替えはなく、友達は一年生の時と変わらなかったが、2年2組の担任になったのは、

水沢先生だった。

 聡子は佐藤先生が持ち上がりだと思っていたので、肩透かしをくったような心細い気持

ちになった。

 しかし、それはひとみのような子を持っているという、自分の中にある特権意識の一種

なのであろうと自らを戒めた。

 

 水沢先生は、美人で品の良い服装と柔らかな話し方をする先生だった。

そして、出来る人だった。

 聡子にとって出来る人とは、そつなく仕事をこなし、人の間違いを正してくる。

「貴方の為に言っているのよ」と水沢先生の言葉こそ柔らかいが、有無を言わさぬものを

聡子は感じた。

水沢先生は出過ぎず引っ込まず、しかし、縁の下の力持ちにはならない人だった。

人に後ろ指を指されるようなことはしない、ヘマをしない人だった。

計算の出来る、先を読める人だ。聡子はそう思った。

聡子は“出来る人”より“出来た人”が好きだった。

 聡子の思う出来た人とは、誰かが失敗したり、間違っても一度飲んでくれる人だ。

間違いが分かっても頭ごなしに教え正すのでなく、何が大事かを考え待てる人のことだ。

自分の手柄や、欲でなく本当に何が必要であるかを考えられる。自分を悪者にしても

本当に人を助けられる人が、“出来る人”だと聡子は思っている。

 

水沢は、ひとみを受け持ちたいと申し出る前に、佐藤の所にひとみがどの程度の障害で

あるかを何度か打診していた。

ひとみを愛しく思い、言葉では語れない彼女の魅力をどう伝えたら良いかと佐藤は思った。

ひとみは授業にはついて行けなかったが、日常生活においてはそう目だった支障がない

と佐藤は思っていた。

佐藤は、ひとみの日常の様子と自分が気を付けている事を話し、最後に

「知的には事実遅れがあるけど、いい子よ。素敵な子だと思うわ。

今の子たちが忘れてしまったことをちゃんと持っている、そんな気がするわ」と言った。

特殊学級を長年受け持ってきた佐藤にとっては、ひとみはそれ程の負担ではなかった。

そして、特殊学級を長年持つということは、出世コースから外れるということでもあっ

た。

学校側は問題さえ起こさなければある程度のことは、大目に見た。

佐藤は、正直自分の受け持った子に会うとホッとした。

普通クラスの子供たちは、いつもやっと飛び越えたハードルのすぐ後に休む暇もなく

次の階段へと追い立てられているように見えて仕方がなかった。それは、教師もだった。

子供でも無理が続き、休む間もなく追い立てられ、頑張りすぎると何かが壊れていく。

世の中から見たら特殊学級にいる子は、落ちこぼれになるのだろうが、人間らしいと

佐藤は思うのだ。

成績が良く一見しっかりとした家庭の子供が、陰で弱いもの虐めをしたり、

佐藤のクラスの子をずるいと言って、馬鹿にし虐めてきたりするのに出逢うと、

今の学校教育は頭脳を育てることだけに重点を置いてしまって、心を育てることを忘れて

しまっているのではないかと佐藤は思うのだ。

 

水沢は教員の一家に生まれた。

祖父は中学校の校長まで勤め上げ、その長男である水沢の父親も母親も教員であった。

親戚も学校や役所といった、所謂かたい勤めといわれるところに勤務する者が多い。

そんな家の長女に生まれた水沢は、幼い頃から「恥ずかしくない生き方をしろ」と

言われ続けてきた。

物心ついた頃から、親に反抗したり、暴れた覚えがない。

勉強も出来た、その分頑張りもした。

四つ離れて弟が生まれた時は淋しかった覚えがあるが、どういう訳か弟は聞き分けが悪く

何かと問題を起こした。

水沢は、大人しくいい子でいるということが、自分の存在を認められる手段だった。

無事に大学を卒業した水沢は、親の力もあり小学校の教諭となった。

職場結婚して水沢姓になったが、おとなしい夫よりも出世欲が強い彼女には未来予想図

が出来ていた。

その第一歩として、知的障害児のいるクラスを持つ必要があった。

上に行くには、経験と実績が必要だった。

 それは上手く展開していった。

みんなが二の足を踏む手の掛かる子のいるクラスを、水沢の意欲が認められる形で担任に

決まった。

 校長と教頭の口から

「水沢先生のように意欲と責任感を持った方が、この学校に居ることは心強いですよ」

という言葉が出た。

 水沢は指導能力に優れていた。このことは誰の目から見ても明らかだった。

物事を理論的に教えることが出来た。

それまでどうしても出来ないといわれていた子を、理解させた時は快感だった。

何年か前に、少子化で30名を割ったクラスを水沢が受け持ち、算数のテストで全員が

80点以上を取った。

今まで算数は苦手だと思っていた子の喜びは格別だった。

しかし、80点を取った子に、通知表では1をつけなければならなかった。

通知表を期待していた子が「頑張ったのにどうして上がっていないの?」と声を詰まらせ

て言ってきた時は、水沢も切なく思った。

 しかし、その時のキマリではどうしようもなかった。

水沢にとってキマリは守るためにあった。

 

水沢は、統率力も企画力もあり、研究発表では県から何度も賞を取っていた。

それと同じように、今回、障害のある子を受け持つという経験も今後の水沢の為には

必要不可欠なことであった。

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