ミミちゃん(8)夏

水沢からは、何かことあるごとにひとみが授業や集団生活についていけないと電話が

入った。

そして、今年も忘れずに夏がやって来た。ひとみの大好きなプールがある夏だ。

その年の夏は、今までにない暑さだった。

学校でのプールが始まると、水沢から連絡が入った。

「あの、お母さんにお願いがあるんですけど、プールのある日は付き添っていただきたい

と思うんですよ」と水沢は言った。

「ええ?一年の時は、付き添わなかったですよ」と聡子は答えた

最近になって、聡子の作る焼き菓子に大分注文が入るようになってきていた。

とっさに聡子は、プールのある日に付き添っていたら順調になってきた仕事を断わらねば

ならない。と思ったのだ。

 後になって冷静に考えればそれ程の注文でもなく、時間をやり繰りすればいいだけの

ことであったのだが、プールの付き添いと言われた瞬間、水沢に自分の大切なものを奪わ

れるような不安と危機感を持ってしまった。

しかし、「一年生の時とは指導が違ってきて、ひとみさんにだけ注意は払えないんですよ」

と水沢に言われれば、もう何も言えなかった。

 プールのある日は、配達する時間をずらしてもらい、聡子は麦わら帽子をかぶって

プールサイドに立ち、子供たちの嬌声と水しぶきを浴びることになった。

それは、思ったよりも楽しいことだった。

 聡子は、ひとみを授けられたお陰で、今まで気付かなかった沢山のことに気付かされた。

それは、楽しいことばかりではなかったが、時間を焦らなくなったことと、立ち止まって

何もしないでいても自責の念を抱かなくなったことは、本当に良かったと思う。

 若い頃に病気をしていた頃の、悲惨な状態にあっても案外のん気だったあの頃の気持ち

を、元気になるに連れて忘れてしまっていた。

あの気持ちが取り戻せたのは、ひとみのお蔭だと聡子は思った。

 

教育相談所

 夏休みになった。

「夏休みの間に必ず行ってきて下さい」と水沢から半ば強制的に

「教育相談所」を紹介されていた。

 水沢に教えられた「教育相談所」は、神社が近くにあり公園に囲まれていた。

駐車場に車を止め、ひとみの手を引いて公園を横切って行く。

セミの声の降り注ぐ中を、ひとみと共に歩いて行くと公園に池があり、何やら檻の様な

ものが見えた。

 ひとみが、聡子の手を引っ張って「あっそぼー」と言い出した。

ひとみの言葉の最初が出てこない吃音は、日常化していた。

「用事が済んだら、帰りに遊んでいこうね」と言い聞かせながら聡子は思い出した。

熊のいる公園があって、子供が柵を乗り越えてお菓子をやろうとして指を噛み切られたと

いう事件があったのは、ここの公園だったと…。

檻の方を振り返って見たが、赤茶けた鉄格子の中は薄暗く何も居る様子はなかった。

「んっなに、おっかあさん」と言うひとみの手を握り、足早にそこを離れた。

 「教育相談所」と書かれた木の看板が掛かったその建物は、木造で平屋のその建物は

昔の診療所か公民館といった趣だった。

 玄関横の待合室で少し待たされたが、間もなく別室に呼ばれた。

聡子は、ひとみを担当した橋本という初老の男に嫌なものを感じた。

妊娠、出産時の異状やひとみの育ちについて質問してきたが、それに答えようとすると

面倒臭そうに話の腰を折った。

「それで?お母さんは異状には全く気付かなかったんですか?」

「それでも何かあるでしょ?障害のある子だったんだから」という問いかけには、

親身さや思いやりを感じることはなく、非難と悪意を感じた。

その後で、ひとみの簡単な知能テストを質疑応答の形で行われたが、ひとみは最初に

会った時に挨拶をしなかったことで

「この子は、挨拶も満足に出来ないのか!」と言われ、

その後の質問に答えられなくなってしまった。

答えることの出来ないひとみに、一方的に次々と質問を続けた橋本は、聡子を振り向き

「何か、やってますか?」と聞いてきた。

その言葉に聡子は、乱暴さと、何か努力はしているのか。という非難を感じた。

「はい、公文に行かせています」と答えると

「クモンー?」と明らかに馬鹿にした口調で橋本は言った。

その目は、あんたの子はそのレベルじゃないだろう!?といっていた。

「公文と言っても計算の練習だけじゃないんですよ。

もちろんひとみは、塾どころのレベルじゃありませんけど、そこは友人がやっていて

幼児向けのコースは点線をなぞって数字を書いたりして、

ひとみは筆圧が弱いのでそれだけでも良い訓練になると思うんです」と聡子は説明しなが

らひどく惨めな気持ちになっていた。

 ひとみを育てる上で、家族や聡子が気を付けたり、心を砕いていることなどこの人に

とっては何の意味も興味もないことなんだと聡子は思った。

聡子が、黙ると、

「これでは、普通の学校では無理ですね」と橋本は言い出し

「この子一人の為にこれでは学校側も大変でしょう」と言った。

 話の流れから橋本が、教員あがりで水沢とは親の代からの知り合いであることが、

分かったが、聡子は気づかない振りを通した。それが、精一杯の抵抗だった。

 すると、橋本が書類に目を通しながら吐き捨てるように言った。

「あんたも強情な人だね。お母さんこの子に何をやっても無駄だよ。

この子は、中学終わっても小学一年生だよ」

ひとみは、部屋の隅に置いてあった絵本をめくっていた。

聡子は、ひとみにその言葉を聞かせたくなかった。早くその部屋から出たいと思った。

 挨拶もそこそこに建物の外に出ると、セミの声と暑い空気が身を包んだ。

「ミミちゃん、公園で遊んでいこうか!」嫌な気持ちを振り払うようにそう言うと

嬉しそうに頷いたひとみが、走り出した。

 その後ろを追いながら、(負けてられるか!)と聡子は思った。

公園には築山があり、刈り込まれた植木があって日本庭園風になっていた。

来るときに見た鉄の檻の横は、池が続いていてカモが木陰に身を寄せていた。

 ひとみはブランコに乗りたがったが、炎天下で熱く焼けたブランコのクサリは乗れた

ものではなかった。

「ミミちゃん、こんなブランコに乗ったら焼き鳥になっちゃうよ、日陰で冷たいジュース

でも飲もうよ」と言うとすぐに乗ってきた。

 木陰にベンチを見つけ、自販機で買ってきた冷えたジュースを、二人で並んで飲む。

甘いものが大好きなひとみが、嬉しさを隠そうとする気など持たないひとみが、いかにも

美味しそうにジュースの缶を口元に運ぶ。

そして、そのジュースをいかにも大事そうにチビチビと舐めるように飲んでいる様子を

見ているうちに、可笑しくなって笑い出した。

「んっなに!おっかあさん?」

「何でもない、何だか可笑しくなっちゃって」

ひとみは不思議そうに聡子を見ながらも、缶を口から離さない。

そんなひとみを見ていると、聡子はつい今までいっぱいだった憤りや悲しみがウソの

ように消えていくのを感じた。

 そして、いつもひとみによって起きた事が、ひとみによって助けられていると思うのだ。

聡子は、今までの経験で、憤りや悲しみをひとみに向けてしまった時の悲しさと虚しさを

知っている。

 何事にも一心不乱のひとみを見ていると、(あせってもどうにもならない。

でもどうにかなっていく)と諦めにも似た平和な気持ちになれるのだ。

 ひとみが、時間をかけてジュースを飲み終え、木陰に座り込んで小石で遊び始めた時

だった。

 研究所の方から歩いて来る人影が見えた。

母親らしい痩せた女性と、か細い男の子だった。

二人が肩を落として歩いてくるのを見た時、聡子は声を掛けずにはいられなかった。

聡子が思った通り、二人は教育研究所からの帰りだった。

 話すうちにその母親も

「この子は、もう見込みがない」と言われたことが分かった。

そして、やはり暗に養護学校を勧めてきたということだった。

 鈴木と名乗るその母親は、聡子のすぐ隣の町の住人だった。

最初はひどく気落ちしている様子の鈴木だったが、話しているうちに少しずつ元気になり

怒りさえ湧いてきたようで、最近見たというテレビの話になった。

 それは、生まれつきの重度の身体不自由児で、一生立つことも話すことも出来ないだろ

うといわれた子だった。

しかし、両親と周りの熱意と努力によって少しずつ話し出し、ゆっくりとではあるが

自分の力で歩けるようになったというドキュメンタリー番組だった。

「絶対に駄目だろうって言われた子がよ。歩くどころか立つこともないって言われた子が、

歩けるようになって話せるようになるのよ。可能性を信じて努力すれば…」

「そうなのよ。この子は駄目だとか、これは出来るようにはならないなんて分かった振り

ばっかりして!。

そんなこと今更改めて言われなくたって、毎日見ているんだから分かってるわよね。

それより、どうしたらこの子を伸ばしてやれるかってことを考えて教えて欲しいわ」

「駄目よ。所詮、他人事だもの」

「そう言っちゃたら、うちの子を駄目だって言う人と同じになっちゃうじゃない?

その人が、他人の事も親身になって考えられる人間になる可能性も信じて頑張ろうよ」

と聡子が言うと

「いろんな人にお世話になったり、迷惑も掛けてるって思っているんだけど…。

もう、疲れちゃったわ」と鈴木が言った。

「私がこの子を過大評価してると、今の担任の先生は思っているみたいよ。

それに普通学校の、特に担任の先生のお荷物になってるってことも分かってるつもりよ。

でもね、養護学校に入ったとしてもそこは高等科までで、それからは普通の社会で生きて

いかなければならないのよ。

主人ともいろいろ話し合ったけど、出来るだけ普通の中においてやりたい。

どんなに非難されても、それが、あたし達の務めのような気がするのよ」

「私も、養護施設に入れないということは、そこに居る人たちを否定しているのかって

言われたことがあるわ。

そこは社会から障害児を排除している場所でなくて、逆に守っているところなんだって

その人は言ってた」

二人が話している横で、ひとみと一つ年上だという健ちゃんが、すぐに仲良くなって遊ん

でいた。

聡子にとっては、ひとみが人見知りしない事と物怖じしないところが、少し心配であり

ながら、それが家族がひとみを認め、居場所を作ってきたことの証である気がする。

それと同時にひとみの幸せが、家族の幸せの証のような気がするのだ。

「やっぱり、養護施設に入れた方がいいのかなあ?」ため息まじりに鈴木が言ったが、

聡子は、答えることが出来なかった。

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