水俣学

  

 友達に、2月28日、夜8時からBSハイビジョン番組、100年インタビューで

原田正純(まさずみ)氏のインタビューによる話があるからビデオに撮ってくれないか

と言われた。

 ところが、我が家にはビデオレコーダーが3台もあるのに、線が繋がっていなかったり

操作が分からなかったり、私のビデオレコーダーは318時間録画というやつだが、

ハイビジョンが録画出来ない。

 それに、ダビングの仕方がよく分からない。

えーい、面倒くさい!

「分かった、話を聞いてまとめておいてあげるよ」

「えー、いいのぉ」

ということで、これをまとめた。

 

 原田氏は現在73歳。

水俣病を研究し続け50年近く患者と付き合うことで、水俣病の実態を見続けてきた人だ。

 私が感じた彼の印象は、優しい、正直な人。

表面は穏やかだが、心の奥に弱者に寄り添う正義感と権力に対する反骨精神を感じた。

 それに、常に自分を振り返るシャイな照れ屋さん。ちゅう感じだった。

 

 原田氏は、去年脳梗塞で倒れた。

でも、その経験は代えがたい大事なことであったという。

 脳梗塞は視野狭窄(きょうさく)、つまり視野が狭くなる。

自分がなってみて初めてその閉塞感、不安、不自由さが分かったという。

 水俣病患者の視野は環状に狭くなる。つまり、小さな穴から物を見ているようになる。

原田氏は、自分が脳梗塞で視野が狭くなって初めてその気持ちが分かったのだという。

 こんなに大変だとは、自分がならなければ知識では知っていても分かってはいなかった

んですね。と彼は言う。

 

 熊本、水俣市における工場から流されたメチル水銀が、地域を汚染し魚介類に蓄積した。

それを食べていた人々が発病した。それが、後の水俣病である。

 それが現れた昭和28年、行政は実態調査を行わなかった。把握しようとはしなかった。

企業は、知っていながら垂れ流し続けた。

 初期段階で手を打とうとする気はなかった。

高度経済成長という日本の勢いの陰に、漁業は切り捨てられ、被害者は黙殺された。

 水俣病患者は、視野、聴力、発語の障害に加え、手足が震え、バランスが取れなくなる

大脳皮質、小脳がやられる。

 

 当時、原田氏は熊本大学に居たが、最初に診察した時の驚きとショックは、その家族や

近隣の人たちには目がいかないでしまったのだという。

 1960年大学院に進んだ彼は、追跡調査をすることになり実際に患者が住んでいる

家を訪れることになるが、訪問をして本当に良かったという。

そこでの患者の暮らしは、漁業の仕事はなくなり、身体は恐ろしい程の状態になって

貧しさと差別の中で人が住んでいるとは思えないようなあばら家に寝ていた。

 追跡調査で、何かの助けになればと故郷を捨てて大阪や福岡で身を潜めていた人を

見つけ出した時は、「先生、そのことには、どうか触れないでくれ」と頼まれ、「余計な

ことをしないでくれ」と怒られたという。

 結婚にも就職にも影響し、差別されていた。

 

 患者達の生きている背景と現場、環境を知ることが、総ての原点になる。

胎児性の胎盤を通った水銀汚染は、世界的な人類初めての発見になった。

「でも、それは私が発見する前にみんな分かっていたんですよ」と原田氏は言った。

胎児を守ると思われていた胎盤を通って、魚を食べたことのない赤ん坊が重度の水俣病

の症状になっていた。

 最初、子供を連れて原田氏の病院に来るようにと言ったのだが、貧しく働いている母親

にその時間もなければ、交通費もままならないという。

 原田氏は、それらの費用を出して来てもらおうかと思ったのだが、自分には時間と自由

があるではないか、自分が訪問すればいいではないかと、患者の家に行った。

 そこは、上村(かむら)智子ちゃん(1956〜77)の家だった。

重度の障害で、そのお母さんは智子ちゃんを抱きっぱなしに抱いて育てていた。

「でも、そこに行くと、行く度に何だかホッとして穏やかな気持ちになったんですね。

そういう子を抱えて貧しい大変な暮らしの中でいるのに、なのに、何故か自分の方が

毎回癒されて帰ってきたんですよ」と彼は言った。

 智子ちゃんのお母さんは、智子ちゃんを“宝子”と呼んだ。

「この子は、我が家の恩人なんですよ。私のお腹の中で毒を全部吸い取って生まれてきて

くれたんです。だから、私にはそんなに中毒がなくて、後から産まれた子供たちには、

障害がないんですよ。

それに、私が智子にかかりっきりでいたのに、お姉ちゃんを見てみんな優しい子に育って、

くれて、自分のこともしっかり出来る、人の面倒も見られるいい子に育ったのは、

みんな智子のお陰なんです。この子は我が家の宝の子なんです」とお母さんは言った。

 それを聞いた時彼は、単に気の毒とかカワイソウなんかじゃない、すごい価値のある

存在と人生なんだと気が付いたのだという。

「教科書なんかじゃ分からないことを教えられたんですよ」

「本当の問題は、教科書にも何処にも書いてないし、教えてくれないんですね。

当事者と現場に教えられるものこそが、本当の問題なんですね」と彼は言った。

 1965に神経学の何だかで、彼は賞を貰い10万円の賞金を貰った。

「それは、自分が貰うのは気が引けて子供の患者の入っている病院にヌイグルミなんかを

買って持っていきましたよ」

 その後も追跡調査、治療を続けるが1969年に水俣病を研究支援する会が発足し

原田氏も入会し、そこで講演を依頼された。

「そこで、またショックを受けることになるんですね」と彼は言う。

昭和28年〜31年に発病があったと言うと、「本当にそうなんですか?」と真剣な目で

聞かれたのだという。

 1956年に公式確認されたが、言われてみれば根拠はなかった。

発表は、そこにある事実につぶされていくことになった。

 川本君という青年に出会うことで、未認定の患者の掘り起こしが始まる。

川本君は、自身も水俣病患者でありながらも、父親の名誉回復、無念さを晴らすことだけ

に一生をささげることになった。

 ある時、半身麻痺の漁師の家に連れて行かれたが、脳梗塞での麻痺だと思っていた人を

「でも、この人は魚ばっかし食ってたんだよ。脳梗塞に、水銀の影響はないのか?」と

川本君に聞かれた。

「ショックでした。医学の常識を疑うってこと、覆す言葉に自分は何をしてきたんだろう、

環境の汚染は、その地域を総て汚染してしまうということに気が付かなかった。

裁判の原告の診断書を書くに当たっては家族も見るべきだという当たり前のことに」

 水俣病認定の難しさは、保証金が絡むことで問題のすり替えになってしまった。

 

「間違えて認めてしまうことより、間違えて認めないことを恐れるべきだ」と彼は言う。

「その力の差は明らかで、患者は弱者なんです」と。

 

  原田氏は幼い頃ジャーナリストになりたかったのだという。

でも、自分にはその才能がないんじゃないかと思って医者の道に進んだのだという。

 何故、ジャーナリストになりたいと思ったかというと、

戦争の時、学校で教科書に墨を塗らされた思いというのが、落書きをしてもいけないと

神聖とされていたモノへ墨を塗るという行為をさせた権力と、空襲で山に逃げた時に

兵隊たちに火の海の町に追い返された。

その時、兵隊さんはミンナを守ってくれると言われそう思っていたのだが、これは何な

のだろうというショックを受けたのだという。

その時の空襲で彼は母親を亡くす。

 

「僕は、アマノジャクなんですよ。正義感なんていったら照れくさいんですけど、根っこ

のところに、少年の日の戦争の経験があるんですね。

それで、強いモノへの反発というか、力を持っているものの横暴さ、権力の怖さがあり

ます」

 

水俣病の海外への発信で1972年、スウェーデン、NGO国連環境会議に参加した。

中毒というのは、ローマの時代からあるが、環境汚染が食物連鎖から起きた中毒は、

若しかして人類初めてのことだったのではないか、と彼は言う。

 

 カナダのパルプ工場で、カセイソーダの触媒で水銀が使われ先住民族が汚染されて

いるのではないかということで、行ってみるともうすでにネコは狂っており、調べてみる

と先住民族の髪の毛からは、高い濃度の水銀が検出された。

水俣市のような事態は現れていないけれど、明らかに汚染が進んでいた。

伝統文化が変わっていく時に公害は起こる。と彼は言う。

カナダの行政は日本に聞いてきたが、日本の行政は、行政と対立している水俣病患者を

見せることも、その実体を知らせることもなかった。

 そして、カナダは患者を認めなかったという。

 

 自然界には、拡散し薄める働きと、集めて凝縮する働きがある。と、原田氏はいう。

その両方を平等に見ていかなければならない。

 都合のよいところだけを見て便利さだけを求めていると大変なことになる。

文明や科学では、こういうことがなければ気が付かなかったことなのかもしれない。

1996年に和解があって、政治的解決があったが、新たな問題があった。

救済という形で1万人に手帳が渡されたが、行政に責任があったということは、はっきり

認めなかったのだ。

 大阪の小さな団体が、それをはっきりさせたいと立ち上がった。

小さな団体だったが、2004年、最高裁で水俣病は国の責任であると認めた。

 

 今、2万5000人が認定され、1万人が手帳を持ち、影響を受けたという人が1万人

行政に訴えてきているが6000人。2000人が裁判を起こしている。

 50歳になる胎児性患者が居る。テレビや映画で映像に出ているような重症ではない、

弱い症状でもその患者は、まだまだ沢山居る。

 日本人は、へその緒を残す習慣がある。それで調べることが出来るので、それが

これからの課題だと彼は言う。

 

 そして、水俣病として病として医学が何もかも独占してしまったのは間違いだったと

いう。

 その他の科学者や研究者が、学問し研究する必要があった。

それは、これからでも遅くない。

 水俣病は、“水俣学”として、世界遺産としたいと彼は言う。

環境問題は、先ず自分の足元から、自らの問題をキチンと見て解決してから世界に

繋がっていくんだ。そうでないと先に進んでいかない。と彼は言った。

 

 3月2日の夜10時、取り敢えずメモしておいたモノで記憶を辿ってまとめておこうと

これを書き始めたが、ふと気が付くと夜中の1時を回っていた。

 身体も冷え切っている。

これはいかんと、それから風呂に入って休んだ。

 

 今は、その翌日。

ここからは、私の意見を書きたい。

 

 今までで、私のスイッチを押してきたものがある。

ヒットラー、ハンセン氏病、カネミツ油、森永ヒソミルク事件、冤罪の数々、差別、

チェリノブイリ原発事故(事件)、臨界事故(事件)、戦争、原爆、少年事件、虐待、

イジメ、自殺。

 そして、水俣市における公害汚染。

 

 私は、日本がイケニエのような気がしてならない。

世界で初めて原子力爆弾が投下された。

それから10年もしないで水俣の公害汚染。これも、公害による環境汚染として

食物連鎖からの発病は世界で初めてのことだったのではないかと原田氏は言う。

 胎盤だけは子供を守ると思われていたことが、胎児性水銀汚染で胎盤を通っていた

ことが発見される。

 臨界の事故(事件)も世界で初めてのことだった。

 

 何事も自分の都合や利益を優先させようとした時、事実の隠蔽、捻じ曲げ、ウソ、捏造

が始まる。

 自分に関係ないと思うことで、都合の悪いものへの排除、差別が始まる。

そして、被害者は必ず罪のない弱いいたいけなモノたちが、踏みつけられることになる。

 

 例え戦争を終わらせるためであっても、破壊行為を行ってはならないと私は思う。

それは、大事なモノ(神、仏、愛するモノ)への反逆行為に他ならない気がする。

 それを愛してないと思うモノでも、総ては繋がっている。

 

 目先の利益や欲望のための、手抜き、誤魔化し、ウソ、捏造、帳尻合わせでやり過ごす

ことは、許されない時が、私はきている気がする。

 

 日本がイケニエとして経験させられ当事者になったということは、その経験と事実を

知らせなければならないということだと思う。

 それは、世界に伝えなければならないということで、伝える権利と義務を持つ。

持たされたのだ。

 

 今、中国が当時の日本と同じ状態になっている。

いや、それ以上の規模かもしれない。

 中国は三権分立が確立していない。

今、公害問題が明らかになりながら、政府がそういう事実はないと発表したら

それはなかったことになり、黙殺され見殺しとなる。

 中国を救えるのは、それを経験した日本だけのような気がする。

 

 原田氏が「自然界は、拡散し薄める働きをすると同時に集めて凝縮する働きもある」

と言ったことが印象的だった。

 熊本に工場を作った企業は、水銀が劇薬であることを知りながら、河川に流してしま

えば、海に流れ薄まって消えてしまうと甘くみていた。

 しかし、それは海を汚染しプランクトンに取り込まれ、小魚に貯えられ、それを食べる

大きな魚から魚介類に蓄積されていった。

 そして、それを食していた人間の身体にたまり、水俣病となった。

 

 人間から発した罪は、人間に返った。それも、罪を犯していない人の下に。

人間は、一つなのかもしれないと思い、いや、人間だけでなく総てのモノは一つなのかも

しれないと思い当たった。

 

 掃除の達人の話を、人づてに聞いたことがある。

掃除というのは、ただ物を、物体を移動しているだけのことなのだという。

 床にあるゴミを拾い、掃除機をかけ、雑巾でホコリを取る。

でも、取ったホコリは雑巾に移動しただけのことなのだ。

 ゴミは床からゴミ箱に移動したということなのだ。

基本的に除菌やにおい消しのスプレーをかけただけでは、掃除とは言わないのだという。

 しかし、ただ移動することが掃除であっても、それが大事なことなのだ。

そこにあるべき所に、あるべき物が行き整理整頓されるということが大切なのだという。

 それは、曼荼羅に似ていると私は思う。

 

 物事が、あるべき所であるべき形を持つ。それを私は秩序というのだと思う。

物事の区切りを埒(らち)という。

人間は、絶対に不埒な真似をしてはならないのだ。

 

 3月2日の映画でチカン冤罪「それでも僕はやってない!」を観た。

いい加減にしろよ!と怒る。

 

 あー、ホントにウッセエ性格だなぁ、自分。

 

で、もう一つ。

 水俣市のある熊本でホームレスの人たちがゴミ収集所から資源物を集めて生活の糧に

していた。

 でも、ゴミを荒らすということで役所に苦情が寄せられ、一度、注意をしたというが、

それでも散らかして困るという声があり、この4月から

「資源物を持って行ってはならない」という決まりが作られ、それを破ると罰金が科せ

られることになった。

 仕事がなくて困っているというホームレスの人たちは、どうなるんだろうか?

 

 minamatagaku.htm へのリンク