ウロウロ日記E銀行員

 

 8月15日(日)の明け方、蝉しぐれの声に目が覚めた。

立秋になったというのに薄明るくなってきた部屋は、窓を開けても蒸していた。

 さまざまな蝉が一斉に鳴いている。それがミンミン蝉の声になって、陽が昇ってきた。

 

 あれから9年になるんだな。と、美咲は思った。

それは、遠い昔のことのようでもあり、ついこの間の出来ごとのようでもあった。

 9年前の3月18日、美咲は世界が変わったような気持ちになった。

それは、世界が変わったのか、美咲が変わったのか美咲には分からない。

 でも、その時の感覚は天動説が地動説に変わったように、正に天と地がひっくり返った

ような、自分の所在が掴めなくなった不思議な感覚だった。

 もう生きていけないような気持が続いたその3カ月後、6月18日、「もういいよ」と

いう声なき声を聞いた。

 

 その年の、8月15日。

夜中に夢を見た。

 1階の玄関の横にジェラルミンのカバンを持った男が立っている。

美咲は、男が何をしているのかとその北側にある座敷から男を見ていた。

 そして、何か気がついて言った。

「もういいよ」

それでも男はそこに立っている。

 そこで目が覚めた。

時計を見ると、ちょうど2時だった。

 トイレに行き、もう一度眠ろうと布団に横になって、美咲は気がついた。

(あー、前に来ていた銀行員だ)

 美咲の夢は、殆どが白黒だ、それに形がはっきりしない。

しかし、どうしてだかそこが何処だか分かり、それが誰だか分かる。

(何で、あの人が来たんだろう?)と考えて、突然思い出した。

(あの人に預けた通帳とお金、どうなってるんだろう?)

 

 それは、美咲がおかしくなる頃だった。

銀行員の心の具合が悪い人が何人も来ていた。

 一人は、仕事に対する不安から笑顔も声も出なくなっていた。

一人は自分のしたことのせいで家族の一人を不幸にしてしまった。そのことで自分を

許せず大柄だった人が恐ろしい程痩せていった。

 夢に出てきた人は、与えられる仕事が多すぎて対処しきれないのか、一口だけでもと

頼みこまれて付き合った毎月の積み金の集金が遅れがちだった。

 美咲は、人に元気がないとつい話を聞いてしまう所がある。

その時に、見えてくる風景みたいなものがある。

 それは、はっきり“見える”というのではなく夢で見るモノトーンの陽炎のような

感じのものだ。

そして、話を聞きながら同時に何かに教えられているような気がする。

本当に辛い時、それは誰かの助けが必要だが、助けを必要としてすがってはならない。

人は、一人では生きていけないが、一人で生きていく覚悟を持たないと前に進めない。

仕事や生きていくことを甘くみてはいけないが、恐れて自分を追い詰めてはいけない。

「どうしたらいいか分からない」「どうしたらいいんでしょう」と言う人が居るが、

“目の前の”“出来ること”を、取り敢えず一所懸命やる、それをやったら次にすることは

自然と出てくる。

 先の先まで考えて心配しても手は届かないし、先の心配は、今すべきことから心が離れ

おろそかになってしまう。

 今を楽しんで行い、終わってしまったこと、手が届かないことに心を配る(心配)は、

自分の力で抑えるしかないんじゃないだろうか。と、そんな気がする。

 

 夢で来た彼は、年末に来る筈だった集金がおそくなって1月も終わりごろに来た。

忙しいんだろうと気遣った美咲は、翌月2月分までの積み金と検査で必要だという通帳を

彼に渡した。

 それ以来、彼が姿を見せていないということに気がついた。

(あー、そうかぁ)と美咲は思った。

きっと、来られない事情があって、それで気にして来たんだな。と考えた。

美咲は、銀行に電話してみようと思い、夢の中で言った「もういいよ」をもう一度

心の中で言って眠りについた。

 しかし、明け方の4時、また夢に現れた彼が、玄関の所に立ってうつむいている。

仕方がないなぁ、面倒くさいな。と思いながら美咲は起きだして般若心経が書いてある

手帳を持って階下に降りた。

 夢の中で自分が立っていた一段高くなっている和室の端に美咲は立った。

夢で彼が立っていた薄明るくなってきた玄関を見ながら般若心経を唱えた。

 般若心経に効き目があるのかどうか美咲には分からない。分からないが、こういう時に

何をしたらいいのか分からない美咲は般若心経を唱え、半分位は空で言えるようになって

いた。

 

 不思議なことに銀行に電話しようと思っていた矢先、銀行の方から電話が入り彼の上司

という人と後任の若者がやって来た。

 3月から半年分が未納だが、月3万円で一年の積立が満期になることが分かったので

3万×6ヶ月の18万を一括で納めてくれれば満期分をお支払いしたいという。

私も被害者で大変だったと言わんばかりの上司の口ぶりに、美咲はむっとしていたが、

「彼は、生きてますか?」と思わず聞くと、

「ええ、生きてはいますよ」とその上司は言った

 

臆面もなく定期積立をしてくれと言ってきたその上司に、丁寧に断りながら、

この人と関わり持つのはムリー、と美咲は思った。

 

 

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