水が出来る

 

 私は15年位、メダカを飼っている。

そこで最近、今年になってからなのだが、“水が出来る”ということを知った。

それはどういうことかというと、時間が経つと濁っていく水が、ある時を境に透明に

なることに気が付いた。

 出来ると言ったが、そこにはいろいろな条件がある。

まだ、そうハッキリと言い切れないのだが、汲み置きしていた水に貝殻、土、水草を入れ

そこにメダカを入れて飼っていると、緑色に濁ってくる。茶色になったりすることもある。

そして、ある時を境に水が分かれ始める。

そう、別れるという感じで緑色一色だった水が、透明な水と緑のノロに別れ始める。

ノロは、上に浮くものと下に沈むものが固まり出し、水は水だけになっていく。

 そうなり出すと、ビックリする程透明な水になる。

今現在、大小寄せて30個ほどあるメダカの水槽のうち、半分の15個の水が出来上が

っている。

 最初に、一つの四角いガラスの水槽の水が出来て、透明になった時は感動だった。

今までにもそういう、水が出来るということがあったのかもしれない。

 でも、意識していなかった。

去年までは、水槽の水換えが大変だったということは、水が出来るまで意識して待った

ことがなかったということだ。

 

 水が出来るのに立ち会いながら、考えた。

汲みたての水は赤ちゃん。無菌状態で汚れていない状態。

 でも、時間が経つと色々の雑菌が入り、汚れていくというか、それらのバランスが

作られていく。人間でいったら免疫が出来るようなものだろうか。

 そのバランスが出来上がったゆるぎない状態が、健康で丈夫な身体が出来上がった

ようなものなんじゃないかと思う。

 でも、水を作っているんだけど、水は自ら出来上がる。

 

 スープを作りながら、水を作るのに似ていると思った。

水に鶏のガラや野菜くずを入れて、コトコト煮込む。

 間もなく水は白く濁りだす。

それでも、コトコト煮込んでいるとアクが浮いて水が透明になる。

 アクを取りながら出汁が十分に出て透明になったところで、ガラと野菜くずを取り出す。

出来た水は透明で、最初の水と見た目は殆ど変わらない。

 でも、全く違う水になっている。

魚の骨でスープを作る時も同じ。

作る時、焦って強火にしてはならない。弱火でユックリ。

作る時間と終わりにするタイミングを見ること。やりすぎると臭みが出てくる。

 

 去年まで、水が出来ることを知らず、出来るまで意識して待ったことがなかった。

忙しくて手を出さずに、偶然出来たことは、あった。

 水が出来る、水作りは、子育てに似ていると思った。

待つことで、子供は自ら出来上がっていく。

そこに条件を整えることは必須だが、整えたら手を出さないで待つことが一番重要。

少しの変化に惑わされず、信じて待つこと。

変化なくして成長は有り得ない。

忙しくて手を出さず、偶然出来た水でなく、変化を知りながら待つ自分になりたい。

 それが出来るようになった時、子の成長に、自分の成長がついていく気がする。

 

 聖書の“なくした金貨”を思い出した。

金貨を持っていた。嬉しい、宝物の、大事な金貨。

 その金貨をなくした。見えなくなった。

必死でさがしたが、見つからない。どうしても、見つからない、諦めた。

 諦めた時、金貨が見つかる。見つかった嬉しい大事な金貨。

その金貨でミンナを呼んでお祝いをする。

確かにあった、嬉しい、宝物の大事な金貨。

 

同じに見える金貨の存在が、一度なくして現れることで変わる。

同じに見える、金貨のない状態が、不安から満足になる。

 

蛇足、金貨は、二度なくなることでゆるぎないものになった気がする。

 

mizu.htm へのリンク