お節介の口出し
お節介の代表といったら、母親かな。
私の陣地に子供が遊ぶ所がある。
母親と子供が来る。
「こんにちは〜」と声を掛けると、間髪いれず
「ほら、こんにちは、は?」と母親が言う。(口を出す)
「ここに遊ぶ所があるよ、どーぞ遊んでね」
「ほら、遊んでねだって、遊ぶ?」とまたまた、横から言う。(口を出す)
「ぬり絵もあるんだよ。やるかなぁ」
「ぬり絵もあるんだってよ、やる?やらない?」(オメーには、言ってねえよ)
そういうお節介母親に、お節介な私が話し出す。
「ねぇ、私、この子に話し掛けてるんだけど、ここは私の縄張りだから私に任せてくん
ない?」と。
誰も、誰かの代弁者になる必要はない。つうか、代弁者が居ると、自分のことを自分で
やらなくなる。
子供に話し掛けてるのに、横から口を出す人が居ると、その子は、人の話を聞かなく
なる。
「ほら、見て!」と言う親の子は、自分で見ない。
「ほら、聞いて!」と言う親の子は、人の話を聞かない。
「ほら、自分でやってごらん」と言う親の子ほど自分でやらない。
心配して先回りして教えようとすると、子供は知りたい欲求がなくなる。
<じゃぁ、知りたい欲求が出るにはどうしたらいいか>
簡単だよ、反対のことをすればいい、ちゅうか、余計なお節介を止める。
先回りして、教えようとしない。
先回りして、助けようとしない。
子供が、何かする前に喋らない。
兎に角、子供がどうするか待っていればいい。というより、待つ。
時間が、いーっぱい掛かっても、ただ、待つ。
そして、何かが起きた時、求めてきた時に、初めて一緒に考える。
一緒に考える。というのは、教えるのとは違う。一緒に、違うそれぞれの土俵で考える。
求めてない時に教えるのは、大きなお世話、お節介の極み。
そして、子供が一番嫌がるのが、評価。
私は、何か話している時に「麻子さんって、〜なんですね」とか
「随分物知りですね。勉強したんですね」などという話の本筋とは関係ないことを言う
人とは、話したくない。
ある、アーティストが言っていた。
「何かを見たり聞いたりするということは、一緒になって同じスピードで、同じ情熱で
走らなければならない。
そうでなければ、ただの評論家になって、そこにある本当の魂には出会えない」と。
<憑依(ひょうい)>
最近、憑依の人が3人来た。
一応、憑依と言ったが、何処にでも居る。
話しかけても、こっちを見ない。目が虚ろ。言い訳、恨み、誰か何かのせい。
こっちの話を聞いているのか、いないのか。何かが失礼。
無表情、自分から話さない。自分の意志がない。(ように見える)
状況でも気持ちでも、自分に見えていることが全てではないと思う。
しかし、それは、苦し紛れに作りだされる妄想の世界とは違う。
いや、妄想ではない。と言い出すとそこで水掛け論になってしまう。
大事なのは、それが本当であっても作り話であっても、本人が何を望んでいるのか。
商売が上手くいかず、どうしたらいいかと聞く人は、自分の好きなことだけして働きた
くない。と声なき声で言っていた。
お客が来ない。と言いながら、
「うちのお客さんいい人ばっかりですぐに帰ってくれるんですよ」と言った。
彼らは、困った苦しいと言いながら、本当に困っていないような気がした。
本当に辛い時、止まる。止まって自分を観る。出来ることを少し始める。
止まって少しで歩くになる。止まって一つ始める。止まって一つで正しいになる。
その一つは、辛いに付く。
辛いは、幸になる。
以前の憑依していた子は、「お祓いをしたいか?」と聞いた時、
「そこに居る子も自分の一部だから、一緒に成長していきたい」と言った。
今、落ち着いて地に足付けて暮らしている。
縁があれば、必要なことは必要な人の所に届くだろう。
何でも、当の本人が、自分の目で見て、聞いて、考えて、決めて、自分が行う。
人は、誰かに頼まれて生きているんじゃない。
自分の意志で自分を生きる。
大事なのは、自分が何を望むか。
それは、欲望の望みでなく、心の奥底に眠っている本当に自分が望んで生まれてきた事
に気が付く時が来る。
言い訳や、恨みから離れて、それぞれの人が自分の足で立つ。
それを手助けしたいと思うなら、余計なお節介をしないことかな。
と、お節介まぬけの私は思う。
お節介には、2種類あるんだけど、分かったかな。