せんべい布団

 

都会のマンモス託児所で、和美は働いている。

毎日、いろんな親がいろんな子供を預けていく。

 その中に、和美の気になる親がいる。

彼女は太った身体に、アジアンチックな服というのか、頭にバンダナをかぶりインド綿の

服を着て自転車に子供を乗せてやって来る。

 彼女は、三流企業の外販部に勤めている。

夫は、名の通った組織の企画部に所属しており、金銭的に不自由している様子をないのに

和美は、その家族に貧乏くさいニセモノのような嘘くさいものを感じていた。

 

四月にクラスの担任が変わった。和美が、その彼女の子供の受け持ちに決まったとき、

嫌な予感がした。前の受け持ちだった田島先生と揉めているという話を聞いていたからだ。

しかし、子供の為の託児所なのだから親とは波風立てないように付きあえばいい。

子供の面倒だけを見ていけばいいんだから、と和美は思った。

和美より幾つか年上であるその彼女は、最初親しげに話しかけてきた。

いや、本当に親しくなりたかったようで、和美に前の担任の愚痴を言い、自分の仕事の

方針を話して聞かせ、一緒にお茶でも飲みに行かないかと何度も誘ってきた。

 特定の父兄と親しくしないことにしている和美は、その度に丁重、丁寧に断った。

前の担任の悪口ともとれる愚痴は聞き流すようにした。

彼女は、自分の仕事に絶対的な自信を持っているようで、本場の英語をマスターする

ために最低一年に二回は、海外に旅行するのだと言い普段の日本語も英語なまりがあった。

 家族で行く海外旅行にはそれ相当の費用が掛かるので、普段の生活は切り詰めるのだと

いうことで、子供の持ち物は質素だった。

和美は人にはそれぞれの価値観や生き方があって、何が良くて何が悪いということは

ないと思っている。

ただ家族や周りの人との意思の疎通と納得、了解をとることは必要であると思う。

だから、彼女の家族が、彼女の生き方を納得しているなら何も口を出す気はなかった。

しかし、和美のそうした反応に母親は不満のようだった。

母親の生き方に賛同し称賛し、前の担任の悪口を一緒に言ってもらいたがっていることは、

ありありと分かったが、和美は一切同意を示さなかった。

和美の受け持ちになったのは、彼女の三男であった。

長男、次男共にここの託児所の卒園生であり、三男である流星は、長男、次男のお下がり

で身の回りの物が賄われている。

洋服、靴、バックからお昼寝の布団、縄跳び紐に至るまで全て兄たちのお下がりである。

流星はそれに対して文句を言ったことはなかった。

しかし、和美はどうしても布団だけが気になっていた。

ぺちゃんこなのである。いわゆるせんべい布団というやつだ。

兄たちが使ったそれは、板のように薄くなり固くなっていて、託児所の床に敷かれそこに

寝ると痛い程なのだ。

そして、流星はオネショをする。

昼寝をする前に必ずトイレには行かせるのだが、頻繁にオネショをするのだ。

和美は、天気のよい日は流星の布団を干し昼寝のときは、流星の布団の下にだけゴザを

敷いてやった。

それでも寝心地が悪く、順番に添い寝をするのだが、オシッコ臭い固い布団に文句も

言わずに丸まって寝る流星がいじらしく、和美は愛しさを感じていた。

流星の家から持ってくるコップもお下がりだったが、これが手垢で黒く汚れており、

その絵柄も判別つかない位だった。

コップは布団カバーと同様に、毎週家に持ち帰り洗ってくることになっているが、洗われ

た形跡はなかった。

「センセ、洗って!」と流星に言われ、和美は磨き粉を付けて洗った。

あまり強く磨くと傷が付いて余計に汚れが付きやすくなると思い、力を入れないようにし

て時間をかけて磨き洗いキレイになった。

和美は母親にお礼を言ってもらいたいわけではなかったが、何も言わないことから、

コップは持ち帰っても洗いもせず見てもいないことが分かった。

 しばらくすると、また汚れてきて流星が、洗ってくれと言ってきた。

「今度はお母さんに洗ってもらおうね。自分で言うんだよ。」と和美は言った。

その日流星は母親にコップを洗ってくれと頼み、前は先生が洗ってくれたのだと言った。

それが、母親には面白くなかったらしい、自分の家ではなるべく洗剤を使わないように

していてプラスチックは磨くことによって傷が出来、それは有害であるのだと和美に

言ってきた。

余計なことをしないでくれと鼻息荒く母親は言った。その日は、それだけで済んだ。

 

和美は、何かに付けて文句や注文を付けてくる流星の母親に付き合うことの難しさを

常々から感じていた。

前の担任の田島は和美の先輩にあたる。

和美は他人に相談することなど殆どないのだが、田島にコップの一件を話した。

田島は、口数が少なく余計なことは言わないタイプの人間だ。

和美は田島と個人的な付き合いはなかったが、信頼していた。

田島は、「あたしもいろいろあったよ。」と言ったが、そのいろいろについては詳しく

は語らなかった。

しかし、実は田島の夫が流星の父親と同じ職場なのだと話始めた。

流星の父親は、一流大学を出て、若くして室長になっている。

それでも昨年、田島の夫が配属されるまでは、一番年長であり、有給休暇を取る順は

年功序列でいくというキマリを自ら作り、自分は権力を行使することのない民主的で

公平な人間だと豪語していた。

それが、田島の夫の方が地位的には下だが年齢は上で田島の夫が、先に休む日を取る

ことになってしまった。

流星の父は、自分が一番に好きな日を休めないことになってしまったのだ。

以前から、順番でなく必要性に応じて休みを取ったら良いのではないかと部署の者が

言っても、流星の父親は、そんなことを言い出したら何のためにキマリがあるのか分から

なくなってしまうと頑として受けつけないでいたのだという。

 しかし、自分が最初に休む日を取れなくなったことから、田島の夫への嫌がらせが始ま

ったのだという。それは今も続き参っているのだという。

「分かっているから、大丈夫よ」という田島の一言で和美は救われた気持ちになったが、

流星のことを思うと心が痛んだ。

流星の母親はバンダナを目の上で縛り、胸を張って自転車に乗って託児所にやってくる。

その自転車の子供いすに流星は乗せられ、母親の命令に逆らうことなく登園してくる。

そして、この託児所は、「自分で出来ることは自分でする」が目標の一つで

「子供の持ち物は、子供に持たせてくださいね」と和美が言っても母親がさっさと持って

いってしまっていた。でも、それを流星に言えば流星が辛くなりそうで見逃していた。

そうした時 園の夏祭りがあった。

夏祭りは、一度家に戻り夜にまた園に集まった。

「夜に着替えを使うから今日は、着替え袋は置いていくんだよ」と子供たちに言った。

いつも自分で袋を持ち帰る子供が、「今日は、袋は持っていかないんだよ」と親に説明して

いる得意そうな声が聞こえた。

流星も母親にそう言っているのを見かけたが、母親は知人との話に熱中していた。

危ない気がしたが、和美はお祭りの準備の忙しさで確かめるのを忘れてしまった。

夜になって子供たちが集まり、着替えの入っている棚を見ると流星の棚だけが空だった。

思わず流星の顔を見ると、流星が、ハッと息を呑みその顔が歪んだ。

和美は、確かめないでしまったことを悔やんだがどうしようもない。

家から着替えを持ってきてもらうように母親に頼もうかと思ったが、そういう時のために

園の着替えがある。

流星に園の着替えを使おうと言ったが、その日はどうしても嫌だと言い張った。

いつもは何でもいうことをきいてしまう流星が頑としてきかないのだ。

どうしたらいいだろうかと、考えながら子供たちを外に出し、和美が部屋を出るとその隙

に流星の母親が、部屋に入る姿が見えた。

良かったと思った。

そして、着替えを持ってきてくれるように母親に言おうと思った和美が、部屋に入ろう

と足を踏み入れた時、母親が、着替え袋を棚に放り込む瞬間だった。

誰か他の父兄にでも着替えを使うことを聞いて、持ってきたのだろう。

母親は棚の近くまで行かずに着替え袋を投げた。

投げられた着替え袋は、スポンと見事に棚に納まった。

和美は思わず(ストライク!)と心の中で叫んだ。

母親は、まるでそこに誰も居ないかのように和美の横をすり抜け外に出て行った。

流星には「良かったね、お母さん、気が付いて持ってきてくれたよ」とだけ言った。

 

流星は何があっても母親をかばう、母親が忘れても自分が忘れたと言ったりする。

和美は以前に虐待されている子供を受け持ったことがある。

なぜなんだろうと思う。

愛され大事に育てられている子が、親に対して不平不満を言うのに、そういう子供は、

親をかばう。意味もなく叩かれても「お母さんはやさしい」と言う。

そして、ずっと見守れる訳でもない自分に何が出来るのだと思うのだ。

 

秋になり涼しさより肌寒くなってきて、和美は、また流星の布団が心配になって

きた。

そして、母親が気を悪くしないように言葉を選びながら、「寒くなってきたので

お兄ちゃんの布団がもう一枚あると思うんですけど、持ってきてもらえませんか?

こちらでシーツの中に入れてあげたいと思うんですけど…。」と言った。

 布団は薄くシーツの中に二枚入ると思ったのだ。

すると、母親は外国では布団など碌にない国に暮らす者もいる、家には家の方針がある、

放っておいてくれと言った。

 和美はもうそれ以上何もいうことは出来なかった。

(しかし、ここは日本であって外国ではない)と和美は思った。

そして(外国に金銭的に貧しところがあっても心まで貧しいとは限らない)と思うのだ。

(自分の方が豊かで幸せだと単純に思うのは、思い上がりなのではないか)と思う。

そして、(皆が貧しい中で貧しいのと、豊かな中で一人だけ貧しいのとでは心の痛みが

違う。どの子もふかふかの布団に寝ている中で、一人だけ固いせんべい布団に寝ている

流星の身になって考えてみろよ。)と和美は思った。

母親はすぐに世界にはいろんな子供がいると言うが、いろんな子供でなく今ここに

居るこの子を、流星を見て欲しいと和美は思った。

その頃から、流星の母親との関係が険悪になった。

朝、流星を連れて登園してきた母親は、和美を黙殺するようになった。

或いは、ちょっとした言葉尻を捕まえて食って掛かってくるのだ。

波風を立てないように母親の気持ちを逆なでしないようにと和美が傍に寄らないように

していると、自分を無視すると言って園長のところへ泣きついていった。

「大体はどういう人だかは、分かるけれど先生も気を付けてくださいね」と園長に言わ

れて、和美は参った。

流星のオネショは、治まることはなかった。

そのことが和美には、文句も言わず、丸まって指をしゃぶりながら眠る、流星からの

メッセージのような気がしてならなかった。

流星は、とにかく文句を言わないのだ。

どの子も親にぐずぐずと文句を言い、自分の荷物を親に持たせたり、持ち物や衣類、

靴などあれがいいとか、これは嫌だとか言って揉めている。

靴を自分で履こうと思ったのに、親が靴箱から出して揃えたからその靴を穿きたくない

などと、靴脱ぎ場にひっくり返って暴れている子など毎日のように見かける。

親は人目があるので小さい声で「後でお仕置だからね」などと言いながらも、もう一度

靴を靴箱に入れると、子供は自分で靴箱から靴を出し、右左逆に履いたぐらいにして、

機嫌良く帰って行くのだ。

朝から騒いでいる親子がいて、「先生に怒ってもらいます」などと親が言うので、

話を聞いてみるとお気に入りの服を持ってこないでしまったから今日は家に帰ると言って

きかないのだという。

その子にはその子なりの不満があり、それが靴や服の形になって表れているのだと

和美は思う。だからといってそのわがままをそのまま受け入れろというのではない。

そうではないが、その裏にある子供の悲しさ淋しさ言葉に出来ない憤りを汲み取ってやり

たいと和美は思う。

しかし、流星には、そういった普通の子供にある欲求不満とかぐずり暴れといったこと

が、全くといっていい程ないのだ。

もうすぐ四歳の流星は少し舌足らずな話し方をするが、落ち着いた悲しい目で辺りを

見て分かっている気がする。

和美は時々流星を思いっきり笑わせてやりたくなる。

くすぐって抱き上げて振り回してやると「あはあは」と笑い嬉しそうな顔をするが、

周りに居た子供たちが集まってくると、すぐに離れていってしまう。

どの子にもある、もっともっとという欲張りな勢いや欲求が感じられず、それが、和美

にとっては、哀れなような心配のような気持ちになるのだ。

いろんな人間がいるのだと和美は思う。

この託児所に来て十年に満たないが、子供をみて、その親を見てきてつくづく感じた事は、

少し分かったことは、(人は、人間は、二人と同じ人は居ないのだ。)ということだった。

(例え親兄弟であっても、皆違うのだ)ということだった。

流星は、流星なりの欲求と悲しみと満足を持って毎日生きているのだと和子は思う。

しかしオネショをして、臭いカボソイ身体でせんべい布団に立ってスマナソウにしてい

る流星を見ると、なぜか可哀想で哀れで、それが憤りに変わるのだ。

憤りは流星に向かうことはない。せんべい布団とそれを持たせる母親に向かう。

しかし、母親が話して通じる相手ではないと分かった今、和美に出来ることは、

ことを荒立てないことと、布団に熱湯を掛けお日様に干してやることだけだった。

流星は「先生は、やさしいなあ」と言った。

 

寒い冬がやってきて正月休みが終わった。

それでも今年の冬は、例年に比べて暖かいようだ。

正月に家でゆっくりした子供たちは、登所してきても穏やかである。

正月明けのその日、流星は家からの連絡もなく休みだった。

園を休むときは連絡することになっているが、一日二日の休みだと連絡しない家庭も多い。

次の日には、登園して来るだろうと思っていたが、何の連絡もないまま一週間休みだった。

何度か家に電話を入れたが、留守のようで誰も出なかった。

一週間後に流星は登所して来たが、連絡せずに休んだことに対して母親は悪びれた様子

はなく普通に挨拶してきた。

流星になぜ休んだのか聞くと、海外に旅行に行っていたらしいが、それを母親に話すな

と言われているらしく、口ごもっているのでそれ以上聞くのは止めた。

しかし、次の日の夕方に流星の母親が、園長室に怒鳴り込んできた。

最初何を怒っているのか分からず、和美が呼ばれた。

彼女は、子供の家庭のプライバシーを話すということは人権蹂躙、プライバシーの侵害

だといきり立っている。

話を聞くにつれて、怒っている意味が分かってきた。

「海外に行って来たことは、それも年に二回も行っていることは、海外に行ったことの

ない人にヤッカマレルから知られたくないのよ」と言った。

そして、そのことを和美が他の父兄に話したと思っているらしかった。

和美は、(今時、海外に行くことなどヤッカム程のことか?!)と思ったが、黙っていた。

そして、「私は、流星君の家族が何処に行っていたか分かりませんですし、そのようなこと

は、誰にも話していませんよ。」と言った。

「じゃあ、真里菜ちゃんのお母さんは、誰から聞いたんですか!?」と和美を睨み、

母親が言った。

「わかりません」と言う和美に、まだ何か言いたいようだったが、園長に諭され母親は

帰って行った。

 

 一月二月はあっという間に過ぎ三月にはクラス替えがある。

ここの託児所は、担任が毎年変わる決まりになっている。

来年度、和美が流星の担任になることはないだろう。

それが、和美には、少しほっとするような淋しい気持ちになるのだった。

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