しあわせ

 

「私、幸せなハズなのに幸せの実感がないの」

「ふーん」

「あなたはいいわね、二人も子供が居て。

私、一人“しか”子供が居ないでしょ。

だから、カワイソウで仕方がないの」

「何で?」

「だって、一人っ子って、カワイソウでしょ」

 

「それに、まだ男の子しか産んでないから、パパに次は女の子を抱かせてあげたいのよ」

 

「欲しくなくったって簡単に子供が出来る人もいるっていうのに、

何人も、子供が居る人を見ると、クヤシクテどうしようもない気持になるの。

神様って不公平だと思わない?」

 

 その人の思考は、一人っ子は、カワイソウで、次に産まれる子は、パパと上の子を

喜ばせるタメに、彼女が“産んであげたい”らしい。

しかし、彼女の計画通りにいかないので悔しい、という。

 

「私、自分が幸せだって分かっているのよ。

子供はカワイイし、夫はヤサシクして“くれる”し。

世の中には、一人も子供が居ない人だって居るし、それどころか結婚さえしてない人も

居るって分かっているのよ。

身体の不自由な人だっているし、病気の人もイッパイいるでしょ、私なんか

そういう人と比べたら幸せなんだって、じゅうぶん分かって感謝しているのよ。

でも、幸せの実感がないのよ。

どうしてだと思う?」

「…」

 

 だって、あんた、シアワセには見えないもの。と私は思った。

そして、失礼なやっちゃな、と思った。

 

 結婚してない人は、子供が居ない人は、身体が不自由な人は、病気の人は、不幸だと

決めつけている。

何でも形だけで捉え、何かと比べないと自分の存在を認められないでいる彼女は、

不幸の迷路で迷っている。と、私は思った。

 

「心貧しき人は幸いである、やがて富むであろう」ってなことを言ってた方がおられたが、

貧しい思考回路。と思う。

 

 形が完璧でなければいけないと思いこみ、そうでないと不満や不安を持つということが、

不幸そのものの形である。ということにその人たちは気がついていない。

 きっと、結婚に満足したら子供が出来ないことを心配し、子供が出来たら、次の子をと

焦り、次が出来たら男の子だ、女の子だということに不満を持つんじゃないだろうか。

 不満とは、満足しない。ということだ。不安とは、安心しない。ということ。

どういう状況でも満足して安心して生きることが出来たら、それは揺るぎないシアワセ者。

 

 そこに居る目の前の家族の気持ちより、周りからどう見られるか、どう評価されるか

の方が大事という人が居る。そして、自分はさておいて文句ばかり言っている。

目を覚ませー!と思う。ちゃんと現実を、そこに居る人を見ろ!と。思う。

あんたは、そういう自分に満足しているか?と聞きたくなる。

「愛される人におなりなさい」って言ってたお方がおられたが、先ずは身近な人、家族に

家族で良かったと思われているか?

 家族の評価をする前に自分に問うてみたらいい。

 

 感謝するということが、あることに感謝するという域から出ない人が居る。

自分にとって都合のよいことを喜ぶのは、本当の感謝ではない、と私は思ってきた。

 いや、それも確かに一つの感謝であるかもしれない。

だけど、「やってくれた」とか「育ててくれた」「助けてくれた」など、与えられたことに

“有難い”と思うのは当たり前な気がする。

 

 感謝というのは、与えられても、与えられなくても、アリノママの今に感謝。

そんな気がする。

何とも比べず、評価せず、品定めせず、仕分けせず、アリノママの今。

今、健康でも病気でも、若くても年寄りでも、アリノママの今。

 

 楽だぜー。

言い訳とか、品定めみたいな所に労力を使わないで生きるって。

 

若しかして、シアワセって楽って事なんじゃないかな。と、思う。

 

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