親鸞 特別展に行く

 

 色んなことに一区切りが付いた金曜日(3月12日)、急に暖かくなった。

寒けりゃ寒いで動くのが億劫なクセに、急にこう暖かくなるとなんだかだるくて、目は

ショボショボするし肩のあたりもヤケに重たい。

久し振りに休みを取ることに決めた。

 

 毎朝、家事仕事をした後、8時半頃に風呂に入っている。

それが、今日は仕事を休もうと思った途端、朝風呂の贅沢さが身に染みて気持ち良い。

 季節によって朝の行動は違うが、一年中変わらず行うことは、見た夢を書くこと、

朝一番の水を真北にあげること、と、自分も水を頂く。それに、瞑想。

 瞑想していると言ったら「エライね」と言った人が居たが、瞑想が出来る(その時間が

あるということ、やる気になれるということ)は、幸せなことだ。と思う。

 その日は風呂の中で行う。

開けた窓から冷たい外気が入ってくる。冷たいが春の風だ。

 車の音が聞こえる。

序所に身体の力が抜けていって、何も考えていない状態になる。

 それは長い時間ではないが、これをすると自由な気持ちになり、何かやりたいという

気持ちになる。

 風呂から出て夫の作った朝食を食べていると、今から東京に行くという。

ヤァリィ、これで昼食の用意もしなくてオッケー。

 夫が出かけると早速、ずっとやりたくていた片付けを始める。

産後の娘が使った寝具の洗濯。着ては脱ぎ捨て山になっていた自分の衣服の仕分け。

冷蔵庫の整理。書類を一箇所にまとめる。

ダイニングやキッチン、あちこちに置かれ半分以上は干からびている野菜の整理。

(くださった方や野菜さん申し訳ない)

 何処もかしこもゴチャゴチャに置かれていて、洗うんだか仕舞うのだか、

捨てるんだか使うんだか、ワケの分からない状態になっていた。

 洗濯機が回っていると、行く所行く所やることが見えてくる。

なのに、裏のミチコさんが熱々の焼き芋を持ってきてくれると、病院に居る義母の所に

持っていってあげたくなる。

 偕楽園の梅も満開なんじゃないかと思うと、以前のように両親を誘い連れて行きたい

気持ちになる。

 

これが、私の首を絞める思考回路で自分のことをしていると、それが例え仕事でも身の

回りの片付けであっても、自分勝手に好きなことをしているような申し訳ないような

気持ちになる。

 でも、その日は、気を散らさずに自分のことに専念すると決めて、前から行きたくて

いた“親鸞聖人の特別展”に行くことにする。

 

お昼過ぎ頃、美樹が孫の繭子と犬を連れてやって来た。

その日の朝、夏子がビヨンセのDVDを持ってきていた。

 よーし、3人で昼飯を食べながらそれを観ようということになった。

朝の紅鮭を入れたオニギリをかじりながら、ビヨンセを観る。

 スゴイ、これは応援歌だ、ゴスペルだ。アリアだ。と思った。

蓮如上人は、「念仏とは、まことの信心を得た上で救われた嬉しさに勇み立って申すもの。

晴れがましい嬉しさに勇み立って申すもの、決して陰気臭いものではない」と言ったと

聞いたことがあるが。

 こいつは、ホンマの念仏じゃないかって感じで、ちょっと涙が出たぜ。

夏子も何度観ても涙が出るという。

 ビヨンセの歌とメッセージを聴いていると、優しさ思いやり、愛を感じ、

前向きに生きる勇気が湧いてきた。

 

 ビヨンセも素晴らしかったが、すごい。と思ったのは、美樹が隣の部屋に寝かせて

いた繭子の、どんな小さな泣き声でも聞こえることだった。

テレビでも映画でも途中で中断することを嫌がる美紀が、何時でも繭子に心を向けて

いることを感じた。

 あー、こいつ、母親になったんだな。と思う。

 

 2時間ライブはあっという間に過ぎて、いつの間にか3時になっていた。

「大変だ。オカア、今日、親鸞聖人の特別展観に行くんだ」

「えー、何処に?」

「水戸の歴史館」

「何時までに?」

「入館が4時半までだから、もう急いで行かなくちゃ」

 気をつけてね。と言われながら家から出る。

 

 そして、案の定、道に迷う。

水戸市偕楽園ということは、歴史館の近くまで来ていることは分かるのだが見つからない。

 路地を歩いていた小学生、工事の警備員、買い物途中の女性などに聞いてその周りを

ウロウロ。

 やっと見つかり入館したのが、4時15分。

 

 1173年に生まれた親鸞聖人、京都から新潟に流刑になり、43歳から62歳を

茨城笠間市稲田を拠点として動かれ、その後京都に戻り90歳で入滅された。

 当時の茨城がどんな様子だったのか、想像もつかないが、移動は徒歩であった。

なのに、関東一円行っていない所がない位に何処の寺にも立ち寄っておられる。

本当に親鸞聖人というお方が、ここ近辺に存在していたということが不思議だ。

 

2001年、私がおかしなことになった時、歎異抄は読んではいたが親鸞聖人がこの

茨城の地に居たことは知らなかった。

自分が子供の時に通っていた寺が鳥喰みの唯円の寺だとは知らなかった。

川和田の唯円という方もおられる。

そして、偉いお坊さんが来た寺だと聞いてきた枕石寺(ちんせきじ)が、実はあの

親鸞聖人が、あの親鸞聖人が通われた所だとは、2007年まで知らないできた。

私は、常陸太田市幸久にある今の枕石寺でなく、最初にあった常陸太田市大門の枕石へ

笠間市稲田から行ってみようと以前から思っていた。

 親鸞聖人が歩いて通われたというその場所へ、車ではあるが同じ道筋を辿ってみたいと

思っていたのだ。

 

 5時閉館、それから笠間に向かって出発した。

赤い丸い太陽が、夕日となって僅かにたなびく雲の間を沈んでいく。

 退勤時間帯だったが、そう大して渋滞もせずに車は西へ西へと進む。

笠間神社を過ぎて稲田の地名が出てきた頃に日没。5時50分。

 それが、以前来たことがあるのに“西念寺”が見つからない。

確か、この辺だった筈なのにと国道から山道に入ってみたが、寺を見つけるのは諦める。

 

 さて、車のメーターを0にして、そこから大門の枕石(まくらいし)に向かう。

道を見つけるのにちょっと迷ったが、常陸太田まで32キロとなっている61号線を走り

始めた頃、車のメーターは10キロになっていた。

 いつの間にか、道が細くてスピードを出さない私の後ろには、車がゾロゾロついて

きていた。

腹も減ったことだし、そこにあったラーメン屋に入る。すっかり暗くなっていた。

そこは、以前美紀と西念寺に来た時に入った店だった。

 和尚ラーメンというやつを頼む。

白い汁で美味しかった。

 仕事帰りの作業着の若者(常連さんらしい)が、店の店員と話しながら私を気にして

いるみたいだった。

 さて、ここからが本番と満足した腹で発車。

すると、車のガソリンメーターがあと僅かになっている。

 まだ、赤ランプは付かないが不安。

私は携帯電話を持っていない。

対向車もあまり来ないような、街路灯も殆どないような山道を走っていると不安が

大きくなってくる。

 人家が見当たらない。

若し、ガソリンがなくなったらどうしよう。

 道路の横には真っ暗な山と林。

ライトを遠目にしないと先の道路が見えない。

 遠目にすると滅多に来ない対向車が来る。

若しガソリンがなくなったら、対向車を待つか。と思いながら車を走らせる。

 今でも人家の見えない山道。

こんな道を親鸞聖人は歩いたのか。

 

 随分長く走っているように感じたが、123号という標識を見て、千代橋という橋を

渡ると那珂市という看板があって、常陸太田まで14キロになっていた。

 瓜連の町になると、あー町だぁ。という感じでホッとする。

瓜連の寺で六夜さんだったか、十八夜さんだったか、何でも先祖供養とかで鍋釜を売る

お祭りがあって、美樹と来たことがあったのを思い出しす。

久慈川、山田川、を渡ると佐竹寺の横の坂を上る。

西山のヤマブキ運動公園の横を通り抜ける。

2007年に両親と一緒に枕石寺に行き、その後で花見に来た所だ。

あとちょっとで大門だと思ったところで、ガソリンの赤ランプが点滅始めた。

 ランプは、坂を上ると点き、平地になると消えるが、ガス欠になったら大変だ。

その日の計画は、そこで終了することにした。

 

 時間は、7時半で、走行距離は43キロになっていた。

 

 近くのスタンドでガソリンを入れ、それから西光寺に行く。

梅が咲いていい香りを放っていた。

 今日の張り紙は何かな、と見ると

「おれが おれが の我を捨てて

  おかげ おかげ の下で生きよ」だった。

 

 フルマラソンは、42.195キロ。

日本中を歩いてダイエットしてるマサルっていう若者は、42キロを9時間で走る?

歩く?らしい。

 世界にイッテキュウの“いもと”は、120キロを大体24時間で走ったらしい。

 

 いずれにしても、あの山道を歩いて何度も通ってきたという親鸞聖人。

それは、関東一円色々な所に歩いて移動した中のほんの一部なのだろう。

 スゲエ人だ。

何時か、私も歩いてみようか。なんて、馬鹿なことをチラリ考えた私なのであった。

 

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