知ってるつもり

 

 って書いたら、そういえば「知ってるつもり!?」っていうテレビ番組があったことを

思い出した。

 エドガー・ケーシーを知ったのは、その番組でで、その後9冊の本を取り寄せて読んだ。

南方熊楠についてもやったらしいのだが、惜しいことに見逃した。

 

 私は、それまで“知ってるつもり”でいたことが、実は分かってはいなかった。と

気づかされることがある。

最近もそれがあった。表面的に幸せそうで人から羨まれるような生活を送っていると

見える人が、心臓に爆弾を抱えその他にも持病があり毎日歩かなければならないのだが、

歩くと夕方には足が痛んで辛いのだという。

 歩けば痛い、歩かなければ病気は進む。

しかし、彼は「自分は幸せで、人生に悔いがない」と微笑んだ。

 

私は、早計で表面の見える部分が幸せそう(大きな家、金持ち、仲の良い家族など)

だと、幸せな人だと思う。

しかし、病気があったり、心配な家族居るなどと聞くと、大変だなぁ。と思う。

でも、その人の心が穏やかであることを知った時、

(あー、人の幸不幸は形にはなく、心の中にこそある。というか心の中にしか存在しない

んだ)と思った。

当たり前のことが、心に届いた。

 

 以前、度々私の所へ来る人が居た。

私は、その人の愚痴だか自慢話だか分からない、いったい何を言いたいのか分からない

長い話を聞くのが苦手だった。

 そして、我慢できずに毎回彼女の話に異を唱えた。

彼女が姿を消してから、その人には背負いきれない事情があったことを知る。

 もっと話したかったという思いはあるが、毎回私は本気で話を聞いて本気で話した。

そのことに後悔はない。

 何より同情で話すことはなかった。だから彼女は来たのかもしれない。

見えることがスベテではないということを彼女は私に教えた。

 

 そうそう、スイッチ・オンで書いたが、友人がガンで亡くなり死の恐怖に襲われ抜け

出せなくなった人が私の所へ訪ねて来たことがあった。

 あの時の私は、それがどういうことなのか分からなかった。

分からないということは、自分は分からないでいるという事が、分かっていない。

 聞こえない人が、聞こえていないという自覚を持てないように。

 

あの頃の私は、誰にでもやってくる死だ、それを受け入れないで済む人は居ない。

だったら、それがどういうことなのか楽しめないにしても興味を持って観察してやろう

じゃないか。みたいな気持を持っていた。

「毎日、何時いかなる時も自分も死ぬんだということが頭から離れないのよ」

普通に当たり前に暮らすことが出来なくなってしまったと言う彼女に

 毎晩、自分にも死ぬ時がやってくるんだなぁー、と眠る前に必ず考えていた私は

「えー、私だって毎日自分もいつか死ぬんだなぁ。って考えない日はないよ」と言った。

 その5年後、自分も死の恐怖に取りつかれることも知らずに。

「知ってるつもりのバカが居る」と、人に向かって思ってきた私が、自分がだった。

 

 サビシンボは、色んな所にある。

家族との別れ、ペットとの別れ、愛する人との別れ、愛する人の居ないサビシさ。

 あの時こうしていたら、ああやっていたらという後悔、時間は取り戻せないもう戻る

ことの出来ない未練。

 事故、事件、病気、虐待。そこにある恐怖、苦しみも、それは経験した本人にしか分

からない痛みで、それは、同じ痛みを持つ者にしか分からず、同じ経験を持つ者によって

のみ癒されるという。

最近、「サビシクてどうしたらいいか分からない」という人に、またもや的外れなことを

言った自分に気が付いた。

 

 以前、ある子が「分からない所で、人はどれだけの人を傷つけているんだろうね」と

言ってきたことがあった。

 私立の小学校に通うその子は、新学期が始まって退職した校長先生が遊びに来るのが

心配で仕方がないのだという。

どうしてかと聞くと、校長先生は学校を退職する前にシーソーを作ってくれていった

という。みんなが遊べるようにと、一人でコツコツ作っていったと。

それが、新しい若い校長先生がやって来て、みんなが元気に遊べるようにとシーソーを

取り外してバスケットコートにしたんだという。

「きっと、新しい校長先生は、分からなかったんだよ。前の校長先生が作ったってこと。

でも、校長先生、また遊びに来るからねって言ってた。だから、きっと来ると思うんだ。

だけど、来た時にシーソーが無くなっていたらどんな気持ちになるだろう。

それを考えると、ボク心配で仕方がないんだ」

「誰も悪いことしてないのに、頑張って良いことをしていても、分からない所で人は

どれだけの人を傷つけているんだろう。

どうしたらいいんだろう」と彼は言った。

 

 自分が良かれと思ってしたことが、人を傷つけることがある。

良くなることを望んでいる程、何かを傷つけたと分かった時自分も傷つく。

 でも、それが良かれと思う、信じる道を進むことだと思う。

人を誰かを傷つけることを恐れて信じる道を進むことを諦めてはならない。

アンテナを張って、情報をリサーチして、何をどうしていくのが最善の道なのか考えて

一歩を踏み出す。

 

 私は結構沢山(?)の本を読み、知識を得た。つもりでいる。

想像で人の人生や経験を味わった。つもりでいる。

 知識で頭でっかちになると、重くて飛べなくなるという。

「だから、あんまり勉強しない方がいいのよ」と言う人が居た。

それを聞いて思った。

重い頭と自分の人生を背負って、それでも飛んでナンボのもんじゃないんかい!

 

 

 

 

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