鯛のお頭

 

 朝の連続テレビ小説で、仕出し屋に住み込みで働く母と娘の長女が就職試験に合格する。

仕出し屋の女将は、「娘も同然に可愛がってる娘だ。就職祝いをみんなでしてやろう」と

して、 鯛の尾頭付きを用意し因縁の宿敵でもある娘の祖母も招待する。

そこに現れた祖母は、もっと大きな鯛を持ってくる。

そして、招待してくれた女将に向かって「随分小さな鯛だね、あたしゃ金魚かと思っ

たよ」と言う。

 

 それを見て、こう言う人って居るんだよなぁ。と色んな人を思い出した。

持ち寄りのパーティを開いたことがあった。

 みんなそれぞれ得意の料理を一品人数分持ってくる。

料理が得意じゃない人は、飲み物か、果物、デザートを買って来る。という色んな人の

料理が食べられて公平でミンナの負担も少ないという持ち寄りパーティ。

 ところが、時々“場荒らし”が混ざっていることがある。

「あたし、料理は得意じゃないからヤダ。でも、飲み物とか買って来るのって不公平じゃ

ないですかぁ。作ったらそんなにお金掛からないのに」

「じゃぁ、作ってきたら?」

「だからぁ、出来ないって言ってんでしょうが!」

     どないせい、ちゅうんじゃ。

 あと、その人の作ってくることが分かっているのに、かぶせて作り持ってくる人。

こういったタイプは多いのかな。

 ポテトサラダが得意っていうか、「あたし、それくらいしか作れないのよ」という人が

居たが、その人がポテトサラダを作って持ってくるのは分かってる筈なのに、ポテサラ

を持参して、そのセリフが「どっちの方が美味しいか、比べてみて」だった。

 テレビの祖母はそのタイプだな。

こう言う人って何なんだろう。と思う。

奥ゆかしさとか、人の気持ちを思いやるということがどんなに美しいことか知らない

んだろうか。

 「きんぴらごぼうを初めて作ったのよ」と嬉しそうに言う人が居た。

そこに遅れてやって来た人、テーブルに並んだ皿を押しのけ、そこにまだ湯気の立つ

きんぴらごぼうの丼を置いた。

「どれ、どっちの方が美味しいか食べてみて」と、テカッタ顔でその人は言った。

 彼女がきんぴらごぼうを作ったと聞いて慌てて作って持って来たのだ。

その人は、料理が得意で中でも煮物が自慢の人であった。

 料理が上手くても、その人の押しつけがましさが、私は苦手だった。

 

 その人のセリフの多くが、「ね!いいでしょ!」「そうなると思ってた」「私の方が先に

やってました。知ってました」「これはこうに決まってる」「みんなそうなんだよ」

「みんなそう思ってるよ」

 

 やっぱり、朝の連続ドラマ小説で、長女が次女に本(平塚らいてう)を勧めそれを読

んだ二女の心が晴れた時。

その「ね、いいでしょ!」を繰り返す姉に「お姉ちゃんが書いた訳でもなにのに、押し

つけがましい!」と二女が言った。

「だって、あたしがあの本教えてあげたんだから、あたしのお蔭でしょ」と長女は言う。

この人の前に立ちはだかるタイプは、人の心に波風を立てることに気付いて欲しい。

他と争い戦う負けず嫌いは、自分に自信が持てず恩着せがましくなり、更に周りを味方

に付けようとして人目を気にし、評価を欲しがることになる。

 戦うのは人より上位に立ちたいという自分の心だ。

一番、二番を付けたがる比べる心は、羨ましいとか悔しいから始まって妬み嫉み執着、

支配から恨みとなり、心の平和が消え人のシアワセを願えないことになる。

 

 天晴れ(あっぱれ)な人生を生きたいと思う。

心にワダカマリがないということは、天が晴れていると同じ状態。

 

 インターネットの人生案内に、「生きてることが詰まらなくてめんどくさくて仕方がない

死ぬ事さえもめんどくさいのだが、どうしたらいいか?」という相談があったそうな。

 その答え。

「人が生きる意味は、大きく分けて3つあるそうです。

人の為に生きる人。自分の為に生きる人。神様を信じて生きる人。

あなたは、今、道に迷ってらっしゃる?

神様でも信じてみては?」

 

 それを聞いて思った。

本当に自分の為に生きることは、人の為である。

 本当に人の為に生きることは、自分の為である。

そうなった時、二つは一緒で、自分の中の神様を信じることが出来る。

 

 マッタク、鯛の尾頭付きから何処まで話は泳ぐのかね。

 

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