対話

 

 「暴力と戦争」の反対に在るのは、何ですか?という問いがあった。

何だと思いますか? ここで一度考えてみて下さい。

 

私は最初、「愛と平和」だと思ったが、愛していれば許される的な理性と知性のない

感情論から脱却したいと思っている私は、そんな筈はない。という思いに至った。

関東大震災の後、すぐにその教訓も防災の気持ちも薄れてきた人達を見て「震災は忘

れた頃にやってくる」と言った寺田寅彦が、戦争に関して「人は歴史から学ばない生き

ものだ」と言ったと聞く。

愛国心が敵を作り、平和の為に戦争を起こしてしてきたという歴史がある。

愛が差別を産む原因だという。

 

さて、「暴力と戦争」の反対に在るのは、な〜んだ?

 答えは、「対話」だった。

 

ある所にエコ贔屓(ひいき)をする人が居た。

気に入った人の意見は取り上げ、気に入らない人の意見は真っ向から反対する。

 ある時、気に入らない人の意見が、お気に入りの人の意見として提出された。

その人は、それを誉めちぎり「こういう意見を出しなさい」と気に入らない人に言った。

 その人は、「はい」と言って、自分の意見だと言わなかった。

誰から出たかは問題でなく、何がどう在るべきかが大事だとその人は思っていた。

 

好きな人だから、有名だから、権力者だから、お世話になった人だから、身内だから、

知り合いだから、同郷だから学校が同じだから、お金を持っているからと、好き嫌いの

感情と損得を交えた様々な理由によって便宜を図る、ジャッジを変える人というのが居る。

そういう人の傾向として、その反対の人(弱者、得にならない人、嫌いな人)を差別し、

排除し、蔑(ないがしろ)にする。

自分や相手の立ち場によって顔を変え、判断を変えることは恥だ。

恥の何たるかを知らない人を“恥知らず”という。

“恥知らず”が権力を握った時、国、組織、スポーツの世界も家庭も全て崩壊へと向

かう。

恥知らずは何か行う際に「対話」を嫌い「いいから黙って言うことを聞け!」と押さ

えつけるか、優しい仮面をかぶり、暴力と誤魔化しで真実事実を説明することをしない。

「これはどうなっているんですか?」と聞かれることを嫌う。

つまり、公明正大でない。

公明正大とは、「公平で明白、隠しだてのないこと。私心(自分一人の考え、私利を図

る心)がない」ということで、公明正大でない状態の人には、対話が成り立たず、何も

任せることは出来ない。

類は友を呼ぶ、対話を嫌う者の所には、対話をせず忖度(そんたく)で気を利かして

いるつもりの者が集まる。

あの国会で聞かれたことに真直ぐ答えず、ハッキリとモノを言わないことが上流であ

るかのような振る舞いをする権力を持つ者たちは何なんだろう?

私は、戦争、原発、今の政治に、公明正大も対話もない同じ構造を感じている。

 

「もっと光を〜」と叫んで死んだ哲学者が居たらしいが、

憲法改正問題、原発問題、

「もっと、対話を〜」って、わしゃまだ死にませんから、叫び続けますから、ヨロシク。

 

 

 

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