手提げ袋

 

 今度、小学校に入学する子を持つ人から、学校に持っていく手提げ袋とランチクロスを

作ってくれと頼まれた。

 袋とランチクロスの大きさは、学校の指定で決まっていた。

 

「あー、面倒くさい。義務教育なんだから学校で用意してくれたらいいのに」

「ミンナ同じモノにすべきじゃないの、柄や形の違うモノを持つっていうのは、

いじめの元じゃないの!」と、その人は、散々文句を言いながら布を決めて帰っていった。

 

 後日、袋とクロスが出来上がったと連絡し、その親子が取りに来た。

 母親は、スケールを持ってきていて、作った袋のサイズを測り、何ミリ違うといって

布を引っ張りながら計測した。

子供はというと、挨拶しても知らん顔で、話しかけても返事をせず。

目の前に出された袋やクロスの色柄に文句を付け、グズグズ言っていた。

母親は、挨拶もせず、ぐずる子供を諌(いさ)めることをせず、それどころか

「ごめんね、ママが勝手に決めちゃったから」と子供の機嫌をとっていた。

 

あー、この親子は学校に入ってから大変だろうな。と、思った。

母親は細かいことに拘(こだわ)り、大切なことを忘れている気がした。

子供は、我慢を知らず暴虐武人で生意気な口を利いていた。

二人とも人に対する態度が失礼で、それに気が付いていないようだった。

躾も教育も出来ない、されていない親子は、学校に行くことで成長出来るのかもしれ

ない。

しかし、最初は周りの人とのぶつかり合いや摩擦、軋轢があることは眼に見えている

ような気がした。

 

袋のサイズが何ミリ違うと気にする母親に、先ずは、それは何のために必要なのかを

考えてみたらいいんじゃないか。と思う。

体操服を入れるタメだったら、何ミリ大きくても小さくても問題ない。

ランチクロスも、食事の時に机に敷くためであるのなら、やっぱり少々誤差があっても

大丈夫だろう。

「ウチの子が、ミンナと違っていたらイジメに合ってしまうかもしれない」と言いい

ながら、他の子より良い目立つ物を持たせたいという気持ちは矛盾している。

それより、礼儀と人に対する気遣いを教えることの方が大事なんじゃないだろうか。

 

「ミンナ同じモノを」と言うが、人は生まれた時からミンナ違う。

その違うことを、楽しめる、そして、それぞれの形を認められる人間になることが、

教育であり人間の成長ではないのか。

 子供が、クロスや袋の柄に何か言ってきたら

「へー、みんなはどんな柄のを、持っているの?」

「どうして、あなたはその柄が好きじゃないのかなぁ?」と

自分の好みを言葉にすることや、物事を思考するいい機会になる。

自分というものを横に置いて、物を観察したり観賞をするということを教える良い

チャンスだ。

そして、挨拶されたら挨拶する。

聞かれたら返事をすることは、総ての基本であると私は思う。

それを教えることが、教育の基本だと私は思う。

 

人と比べて優劣を付けることだけに終始している姿は、貧しく、淋しい。

大きな人間になる思考と行動、そして、教育であって欲しい。

 

「義務教育なんだから、学校が用意すればいいのよ!」とその人は言ったが、

義務教育とは、総ての子供に等しく教育を受けさせる義務を負うということであって、

やってもらって当然ということではなかろう。

自分で出来ることは、自分でする。

どうせ用意するんなら、面倒臭がらずに子供と一緒に楽しんで選んだらいいのになぁ。

と、思う。

 

それよりお母さんが、そんなに焦ってバタバタしてたら子供は不安になってしまうん

じゃないかと思う。

 親が子供の幸せを願うのは当然のことだと思う。

でも、子供のことを思ってのことであっても、ただ、辛い目にあわないように、損をし

ないように、要領よく立ち回り、人に認められて楽な道を歩めるようにと、親がバタバタ

している姿を、子供はどう感じるのだろう。

 人間万事塞翁が(の)馬だ。

お母さんは、ドーンと構えて欲しい。といっても、だらしなくては困る。

鷹揚(おうよう)で大らかであることと、ルーズでだらしないことは別のことだから。

 

 人にとって、何が本当に大事で大切なことなのかを教えて見守る親(大人)になりたい。

何をするにも、そこにどんな意味があってそれを行うのかを考える。

 その意味を考え、理解すれば、どうしたらいいかが見えてくる筈だ。

 

 何事にも優劣を付けて、自分の好みや都合だけで考えていると世界が小さくなる。

何でも自分中心に考えていると、ちょっと良いと有頂天になり、その他のものを馬鹿にし

始める。

人と比べることでしか自分を認められない人間は、少しでも負けるとヘソを曲げ

落ち込んで、他のことで仕返しをしようとしたりする。

自分のことはさておいて人の評価ばかりしていると、優位に立っているつもりになる。

 

 冷静に自分を入れずに観察鑑賞し思考する習慣を、身に付けたい。と思う。

でもそれは、人に教えることじゃなくて、自分が行えばいいことなんだと思う。

 

私が間違いやすい落とし穴が、自分の行いを見守ることを忘れて人に教えようとして

しまうことだ。

 人に教える前に、ただ、黙って自分が行えばいいのだ。

それが、結果的に人への教えになるかもしれない。

 そう、それは結果的にそうなることが、正しい道であるような気がする。

        私は、それが出来ていない。  だから、頑張る。

 

 何時ものことだが、いきあたりバッタリで書いているので分かりにくいかな。

 

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