枕石寺

 

 2010年3月26日

庭の暖地サクランボの花が満開になったと思ったら、もう茶色になり始めている。

 今年もサクラの季節がやって来た。

サクラは日本人にとって特別の想いがあると聞く。

 サクラの“サ”は、何処からか神がやって来るみたいな意味で、サオトメとかサナエ

の“サ”も同じ意味らしい。

そして、“クラ”とはそこに座る、落ち着くという意味だと聞いたことがあるが、

そういえばあの蔵、倉も同じ意味なのかな。

 つまり、サクラは、カミサマがやって来てそこに落ち着いて座っている状態なのか。

 

 

 2007年4月11日

桜が満開だというのを聞いて、両親が花見に行こうと言い出した。

 私は、“枕石寺”にどうしても行きたくなった。

枕石寺は、その寺がどうして枕石寺という名前になったのかという話を、幼い頃から

何度となく聞いてきた寺だが、まだ一度も行ったことがなかった。

今年79歳になる父の運転する車は、母と私を乗せて、白く霞み陽の差す道を走りだ

した。

 

 枕石寺は、大祭礼の時に来た幸久小学校のすぐ傍にある。

単線の線路を横切り、細い道を入って行くと枕石寺はあった。

 春の風が、暖かい。

本堂で手を合わせ、辺りを見回すと春の花が咲き乱れている。

父は、寺の南側にある土手に上り腰を伸ばしている。

母も、私が幼い頃から枕石寺の謂れ(いわれ)を話して聞かせてきたが、弘法大師と

言ったりエライお坊さんがと言ってきた。

しかし、入り口の説明には、浄土真宗 大門、枕石寺、とあり、親鸞聖人の銅像が

建っていた。

「ここは、弘法大師さんが、宿を貸してもらえなくて石を枕に寝たから…」と母が話し

出した。

「ちょっと、それは、弘法大師じゃなくて親鸞聖人だよ」と言ったが、

「へー、そぉけえ」と母は、全く関心のない様子。

 私は驚いていた。

ナーニィ、あのエライお坊さんの話しは親鸞聖人だったのか!

そして、あー、母のこういう知識と話によって私は育ってきたんだ。と思う。

母は、父母や本宅の母から聞いてきた話を私に語り聞かせてきた。

私が、確実な人名地名に関心がなく記憶しないのは、母の遺伝かもしれない。

でも、記憶力には自分で言うのも何だが、なかなかのものだ。

それは、母も同じだ。

興味を持って聞いたことは、まるでそこで見ていたかのように、生き生きと再現して

聞かせる。

それは、母がよく言う「講釈師、見てきたようにウソを言い」というそのものだ。

 

 母が、弁当を買っていこうと言い出し、途中コンビニに寄る。

嬉しそうな母は、食べきれない程の弁当やパン、ジュース、ゼリー、チョコレート、

キャラメルなどを買う。

 この人は、昔からそうだった。って今もそうなんだけど、人を喜ばせることが好きで

何でも大袈裟に行う。

 時々ムカツク母だが、手放しで楽しそうにしている母を見ているとこちらまで嬉しい

気持ちになる。

 

 それから、“やまんてら”に行った。

ここは、母が結婚して落ち着いた頃に、おかしな状態になり助けられた所だという。

 まあ、結婚生活にも慣れ妊娠したばかりの頃だったから、頃現代の医学では五月病、

マタニティブルーとでもいうことになるんだろうが、食欲がなくなり、目も空ろな状態で

何やら様子がおかしくなった。

それを母の母親と姑が心配して“やまんてら”に相談に行った。

すると、以前に母の近所に嫁いできたが身体が弱く実家に戻ることも出来ずハナレに

寝かされたまま一人淋しく亡くなった人が居たという。

その人が、元気で若く子供が出来た母を羨やんでいる。ということだった。

その人の供養をするようにと、祖母たちは、お坊さんに言われ、何かをしたらしい。

すると、母は何事もなかったかのように元気になった。

それは何度も聞かされてきた話で、一度その寺に行ってみたいと思っていた。

今の私が52歳、誕生がきて53歳だから53年前の春の話だ。

“やまんてら”の、そのお坊さんは、キツイ修行で足が“イジャッテ”いたんだという。

そして、やまんてらのお坊さんは、その辺りのことを分からない筈なのに、祖父母も

知らない近所にあったことを分かったのだという。

 その“やまんてら”は、山の麓にあり、入り口の石段の下には水子の供養がなされて

いた。

猫がウロウロしていて、水子地蔵に掛けられた赤い布が、静かに春風に揺れていた。

 

西山に車で登ると、駐車場が満車だったので、ヤマブキ運動公園に行った。

空いている駐車場に車を停め、満開の桜の下、芝生に座って買ってきたお弁当を広げる。

広い公園の運動場には、野球少年が走っているだけで、辺りには人は居ない。

桜の花びらが私たちの上に惜しげもなく降り注ぎ、風に舞った。

 3人での昼食。

嬉しそうな父と母の顔を見ていたら、不覚にも涙が出そうになった。

 

 何日か後、枕石寺に一人で行って、気になっていた入り口にあった説明を書き写した。

「この寺は750年程前(昭和50年とあったから、現在からは780年以上前になる)

親鸞聖人が、館をおたずねになり“枕石寺”と名付け、ご滞在されたこともある。

 1186年 日野左衛門が京都の日野の里に生まれた。しかし、その驕慢な性格ゆえに

流罪となりこの地へ来た。

 1212年親鸞聖人が2人の弟子と共に、そこを訪ねたが一夜の宿を貸さぬばかりか、

門前まで追い出した。心配する弟子に親鸞聖人は、

「寒くとも、たもとへ入れよ西の風、弥陀(みだ)の国より吹くと思へば」と詠んだ。

日野は、その夜改心してお弟子となり入西房道円の名をいただく。

親鸞聖人は「あなたの邪険驕慢な心を早く捨て、大海のような広大な心で、お慈悲を

喜ぶ身となってくれよ」と仰せられ、昨夜の石の上に「大心海」という三文字をお書き

になり、館を「枕石寺」と名付けられたと伝えられている」と、そこにはあった。

その書は11月16日、親鸞聖人の命日に自由拝観出来るらしい。

 

 それから間もなく水郡線の谷河原駅のすぐ隣にある寺に行った。

今まで気が付かないできたが、線路を挟んだ駐車場の所に「親鸞お立ち寄りの寺」と

あるのを見つけていた。

 そこは、私が小学生の時に書いた「セミ」の寺だった。

私は此処が大好きで、一人で来てはウロウロしていた。

 夏の暑い日、セミの声に包まれる中、寺の入り口の門の辺りで、そのセミと遭遇した。

その時の光景、夏のニオイと草いきれ、汗ばむ身体に照りつける太陽、そのセミの声は

読経に思えた。

 寺の入り口には、右に「真宗大谷派 鳥喰山無量光院 西光寺」とあり

左に「親鸞聖人御旧跡 唯円房開其 二十四輩 二十四番本跡」とあった。

(唯円房開基!?)

 

 それから間もなく、仕事で行った先で親鸞聖人の話になり、“親鸞聖人二十四輩巡拝”

という本を見せてくれた。すぐに注文したが絶版で手に入らず、頼み込んで借りた。

それが、現在手元にある。

 

“親鸞聖人二十四輩巡拝”新妻久郎著

親鸞聖人が、関東の地で24人の高弟を、二十四輩と称し、その奇跡寺院を巡る巡拝が、

古くから盛んに行われてきた。

そこを巡ることは、親鸞聖人の足跡をたどる旅であり、親鸞聖人とともに歩く旅でも

ある。と表紙にある。

 

今、必死でそれを読み、書き写している。

思うに、きっとこれを読み終えたら、この本は古本屋で見つかるかなにかして私の手元に

来るんじゃないかと思う。

 今現在、この本が、私の手元に来て読むことが出来るということと、今手に入らず返さ

なくてはならないということは、有り難いことなんじゃないかと思う。

 四国巡礼に行った人が、美しい景色にカメラを向けるとシャッターが下りない。

どうしたことかと、戸惑っていると、

「心の目で、自分の目で見なさい」という声なき声を感じたという。

 後でカメラを調べてみると、カメラには何の異常もなかったという。

記録を残すことで安心して、その時を自分の目で見ない、感じないことは愚かしい、

勿体ないことなのかもしれない。

 

 枕石寺(ちんせきじ)は、元は「大門」という常陸太田のはずれにあったと聞いた。

そこには、枕石(まくらいし)という名のバス停があった。

 

「以前に聞いた話」

夏に偉い坊さんがソコに来て水を所望したが、汚い格好なので邪険にし、水を出さな

かったんだと。そしたら、その辺一帯の井戸水が出なくなったんだと。

 そこの主人は訪ねて来たお坊さんを家にも入れず、門の外に追い出したんだと。

お坊さんは石を枕にして寝たんだけど、夜中に観音様が現れてそこの主人は心を入れかえ

て改心して、 お坊さんが石を枕にしたから、枕石寺っていう名前になったんだと。

と、いうような話を聞いてきた。

でも、枕石寺は河合にあった。

枕石は二つあるのかと、ずっと不思議で腑に落ちないできた。

それが、寺基は、移設されることがあると知り納得がいった。

寺は大門から河合に移っていたんだ。

そして、夜中に主人の枕元に現れたのは、その家の守り本尊であった千手観音だった

と知る。

 

「枕石寺について、私なりの見解」

日野は、1186年京都の日野の里で生まれる。

しかし、驕慢(きょうまん)な性格によっての流罪。

失礼な話だ。そこに、幸せに“住めば都”で満足して暮らしている人が居るのに、仕置き

感覚で住むことになった地である。

 しかし、大門に来ても、日野家は財産家だったようだ。

使用人がおり門があった。そこに、親鸞聖人は度々訪ねて来る。

何故、訪ねたのか?

親鸞は9歳の時に伯父である日野氏に伴われて青蓮院の門をたたき、そこで出家得度して

いる。

同郷で同じ姓であった、そして流罪になり同じ地に住むことになった日野は、縁故だっ

たんじゃないだろうか。同じ京の都から来たということだけじゃない何かが、そこには

あったような気がする。

夏に日野の家を訪れた親鸞が、水を所望するが、断われれる。

すると、その辺一帯の井戸水が涸れる。

暮れも押し詰まった雪も降り出した夕暮れ、一夜の宿を求めた親鸞を、日野は断り、

門の外へと追い出す。

あまりの寒さに、伴っていた二人の弟子は親鸞の身体を心配するが、日野の心は、

生きて行く道しるべのない寒さに打ち震えていたのではないだろうか。

 その夜中、日野の枕元に千手観音が光を放って立つ。

一瞬にして、改心した日野は、親鸞の足元にひれ伏した。

その日野に向かって親鸞は、

「あなたの邪険、驕慢な心を早く捨て、大海のような広大な心でお慈悲を喜ぶ身となって

くれよ」と仰せられる。

 そして“大心海”という三文字をお書きになったという。

 

親鸞の住む笠間市稲田から、昔の常陸太田の外れである下大門までの距離は、

45キロ近くあるだろう。そこに度々訪れたんだという。

道路は現代のように整備されておらず、山道は険しい。

移動は徒歩であっただろう。

 親鸞が歩いた沢山の場所を聞くと驚く。

何時か、形だけでも同じ道を辿ってみようと思う。

 

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