中国人のマナー

 

 今日から5日間、仕事はお休み。

でも、父のディサービスと昼食作りのヘルパーさん、夕食の配食サービスも休み。

 自分の食べ物を作りがてら通うべ。

 

 あ〜、しっかし、自由だぁ〜。

朝からイキアタリバッタリに掃除機をかけ、雑巾を掛け、服やタオル、シーツなどを

洗ったり畳んだり。

 とりあえずのルールは、床に物を置かない。ちりホコリを取り除く。分類別に片づける。

片目でつけっ放しのテレビを観ながら、磨いたり畳んだり楽しくて仕方がない。

 “大家族、石田さんち”のテレビ、初めて見たけど、子供たちが可愛くて面白くて成長

していく様子に感激して涙まで出る始末。

 そして、よくやってる“中国人がマナーを知らない”という報道番組。

ことさら大袈裟にタバコを捨てた。だの道路の真ん中に集まってタッパーを開けて果物を

食べてます。だの、寺院に土足で上がった。建造物に登った。などと騒いでいるコメン

テーター達。

 マナーを知らない。って?  マナーを知らない。んだろ?

だったら教えたらよかろうもんを、分からないでやっていることを取り立てて、こんな

ことも分からないようです。ちゃ、どういうことだ?

 

 そして、思い出す。

ワシが小学生の時だった。

 授業参観の日でもないのに何故か母親が学校にやって来て教室の後ろに立った。

ワシは訳も分からず後ろに立っている母親に手を振った。

 母親は鬼のような形相でワシを睨み、ワシはその只ならぬ様子にゾッとして前を向いた。

その時、母は学校でのワシの様子が落ち着きがなくおかしいから見に来るように言われて

来ていたのだった。

 そして、家に帰ると折檻された。

母はよく「親に恥をかかせるな」と言った。

ワシに、親に恥をかかせるつもりなど毛頭なかったが、変わり者?だったらしいワシの

言動、行動は教師や大人(一部の)の燗に触るものであったらしい。

 

 今、ワシは店をやっているが、子供が商品を触りいじり果ては遊びだしたりする。

そこで「あ、店の品物は触らないで見てね」と言うと、まぁ意地になって止めない子も

居なくはないが、ほとんどの子は素直に止める。

 そこに親が居た場合、この自分の小学校の時の話をすることになる。

自分は小学生の頃、授業中に歩いてはいけないと知らなかった。

「この答え分かった人!?」と先生が聞いた時、「はいはい」といちいち手を挙げては

いけないと知らなかった。

 先生のお話しに口を挿(はさ)んではいけないと、知らなかった。

ワシは、今でもそうだが、常に目の前のことに一所懸命、全力投球していたい。

 そうでないと生きていることに飽きてしまうのだ。

学校の休み時間に本を読みだすと、夢中になって始業のチャイムは聞こえなくなった。

絵を描き始めると面白くて止めず、休み時間になっても次の授業になってもお昼に

なっても描き続けた。

 

 脱線しているワシを線路に戻すのは、簡単なことだった。

あの頃さんざん聞いた「お前はおかしい!」「なんのつもりしてるんだ!」

「何を、考えてるんだ!?」という言葉でなく、

「授業中は歩いてはダメなんだよ」と、怒らず教えれば済むことだった。

 ワシは、自分で言うのも何だがとても素直な子供だったし、(今もチョー素直だけど)

ひねくれたり意地になったり意固地になることのない、話せば分かる人間だ。

教師は、ワシがずっと絵を描き続けるのを見ながら、ワシには何も言わず母親に

「お宅の子はどうなってるんですか?一度見にきてください」と連絡した。

母に連絡する前に「絵の授業が終わって次の授業が始まったら次の授業をやるんだよ」と

言えば、ワシは「あー、そうか」と納得した。

 ワシは、何だか自分は天才だと思っていた。思い込んでいた。

それ(自分が天才だと思う)は、今現在も全く変わっていないのだが、あの時、絵を描く

事に夢中になっている自分って凄いと思っていた。

 今の学校教育にも、この時のワシに対する意地悪(敢えて意地悪と言う)と同じものを

感じている。

教師(大人)と子供(知らない者)の間に、信頼ツゥラストと敬意リスペクト、そして

思いやり(共感性)があったら、誰が手柄を立てずとも良い方向進む。

 この“誰も手柄を立てない”で良い方向へ進むというのが大事なのだ。

それが、何故か事を大袈裟にして特別問題でもないことから子供(知らない者)を悪者

に仕立て上げていく。

何故かワシが知り合う親子にワシと同じ躓(つまづ)きがあり、学校から追い出され

ているように思えてならない。

 何事もない人はそれでいいだろう、でも、その村八分の罠の網に引っかかっている親子

は、人が人として生きるとは、行動するとはどういうことなのか、考える機会が与えら

れているのかもしれない。

 

あれは、何年前だったかな、日本人がマナー知らずだと世界の国々に言われていた時

があった。今も言われているかも知らんが。

Uになる前でヨーロッパの経済状態は最悪で日本がバブル景気で浮かれていた時で

ワシも景気がよくなっていてパリミラノミュンヘンに行った。

 パリのこじゃれた店に入った時、小奇麗で明らかに日本人とはセンスの格が違う女性

がこっちを横目で見ていた。

少ない量の品物をこだわって飾ったであろうディスプレーに手をやる者が居たが、

チッと舌うちが飛んだ。

そして、ワシたちが店から出るか出ないかで商品の位置を直す姿があった。

あの頃、アジアの国々に仕入れや観光で行くと、日本人はすぐに値切ったり威張っていて

嫌だ。という声を聞いた。ヨーロッパでは、大声で話したり騒がしくマナーが分からず

下品だ。という声を聞いた。

日本人が大金を持って海外に進出している時代だった。

旅客機のスチュワーデスが気に入らないからと頭から水を掛けた日本人女性が居た。

卒業旅行で海外に行った学生が世界遺産に落書き(自分の名前や学校名を書く)をした。

っていうような話、イッパイあったよね。

 

 なっ、どう思う?

日本人だって変わらないじゃねえかよ。

 ちょっと景気がいいと、みんなで海外に行ったりすると嬉しくて楽しくなっちゃって

浮かれちゃうんだよ。

 日本だって、みんなが歩いている道路の真ん中でたむろっているオバサンのグループ

とか、嬌声を挙げてる若者のグループなんかも見るぜ。

 タッパーの果物をミンナで突っついて食べてるなんて可愛いじゃねえか。

 

 で、寺院に靴のままで上がって行こうとする人を見かけたら、簡単じゃねえか。

「あっ、ここは靴を脱いで上がります」と言えばいいだけのこと。

言葉が通じなくたって、気持は通じる。馬鹿にしたり嘲笑ってじゃなくて、簡潔に。

 

 子供にだって、羞恥心がある。子供に限らず、知らない者には、馬鹿にしないで

「怒らず、教え、恥をかかさない」これに尽きると思う。

 大体が、何で怒る必要があるんだよ。

分かっていて、それでもやっているなら兎も角、ルールやマナーを知らないなら教えれば

いいだけのことじゃねえか。(教えて“やれば”じゃねえぞ)

 

 いっつも思うんだけど、ボキャブラリーって大事。

怒る。という言葉で一くくりにされているが、叱る、諫める、注意する、指導する、促す、

から、教えられたことまで、「怒られた」という。

 教育に感情は必要ない。逆に感情が先に立つと、教育は成り立たない。

何が本筋で必要であるか、教えて伝えて、本人が“育つ”。

 誰かが“育てる”んじゃねえぜ。

育つとは、月が充ちると書く。時の流れは人の力とは違う次元にあり、人の上に流れる。

 

 知っている者は、知らない者に、教える義務と権利を持ち、

知らない者は、知っている者に、教わる義務と権利を持つ。

 

 あ〜あ、また、寿玄夢っちまった。

 

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