うどん

 

 昭和29年、1954年生まれの私が小学生だった頃、学校というキマリに縛られた

生活は地獄そのものだった。

 でも、そうは言っても、そこには沢山の楽しみもあった。

その一つが、視聴覚室で観る幻灯と8ミリだった。

 視聴覚室という名を付けられた小さな教室は、暗幕カーテンで窓が覆われ、闇となる。

そのカーテンの隙間から入ってくる細い光は、無数のホコリをキラキラと浮かびあがら

せていた。

 油粘土のニオイ、上履きのニオイ、子供の息が混ざり合った生暖かさとザワメキ、

遮蔽(しゃへい)された空間で身を寄せ合うと、妙な連帯感が生まれた。

 幻灯も8ミリのフィルムも学校が持っている物に限りがあったのだろう、同じ物が

何度も上映された。

そこに終戦後のニュースもあって、DDTという白い粉を振りかけられる大人や子供

の姿が白黒でパチパチと鳴る8ミリによって映し出されていた。

芥川龍之介の“くもの糸”は影絵のような感じだったと思うが、何回観たことか。

あれが、私の原点になった気がしてならない。

 当時は戦後始まった衛生教育と栄養教育が盛んだった。

その衛生教育として観せられたのだと思うが、ギョウチュウやサナダムシがどうして

腹に入るのか、そしてうつるのかという内容のものがあった。

 ボンヤリとしたカラーのそれは、人糞(じんぷん)を畑に撒いている絵から始まって

手を洗わないで何かを食べることでその卵が腹に入り、腹の中で孵(かえ)る図があった。

ギョウチュウは、腹の中でかぎ状の爪でつかまっていて排便しても外に出ないように

なっていて、夜になると肛門に卵を産みに来る。

だから、布団に入って寝付く頃に尻の穴が痒(かゆ)くなるのは、虫(ギョウチュウ)

が居るためだという。

そして、布団にも卵が付いているのでよく日光に干して叩く必要があるという。

 

きゃー、怖いよう。それは、何度観ても恐ろしいものだった。

その極めつけが、サナダムシの写真だ。

きしめんのような白い長いサナダムシが、何かの器イッパイに入っている写真が出る。

それへの怖さと興味は、何度観ても慣れることはなかった。

 それを観たのが4時間目で、その後の給食がうどんだったことがある。

あれには、誰もが参った。

 

一年生に入って最初は弁当持ちだったが、間もなく時給食室が出来て給食が始まった。

農家の子が多く給食費が払えない家は、家で作った米野菜を持ってきていた。

 

 人って変わるんだな。と、つくづく思う。

 給食の時、汚いことを言うのが流行った。私は給食が嫌いだったこともあってか、

ドロドロした物を食べている時に鼻汁みたいだと言われただけで吐き気がして食べられ

なくなった。

それが、汚い話をしながらでも、子供のオシメを換えながらでも食事が出来るように

なった。

床屋に行くと何処を触られてもくすぐったくて、じっとしていられなかったし、

切った髪が襟元に入るとチクチクして居たたまれなかったのが、今じゃ少々何か付いて

いても平気というか気が付かない。

子供の時、トマトや卵は生臭く、キュウリは苦く、葱は臭くてまずかった。

品種改良が進んだことや路地物が減ったこともあるのだろうが、子供の時の繊細さは

明らかになくなってきている。

子供の頃、歯磨きをするとホッペタが痛くなって困ったが、今はそんなことはない。

ちょっと棘が刺さっても大騒ぎだったのに、最近、仕事をしていて何だか手が

痒(かゆ)いと掻(か)いた爪が赤い、よく見ると棘が刺さった所を掻いて血が出ていた。

 

 さて、今の私はサナダムシの写真を見た後でも平気でうどんを食べられるかなー?

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