ウサギ(オオムカドン)

戦後、キヌは尋常高等一年、二つ下の弟Kが小学五年の時、二人でウサギを飼った。

ウサギといっても、現代のようにペットとして可愛がろうとしたのではない。

ウサギを飼い、その毛を売って小遣いを稼ごうとしたのだ。

父ちゃんに「Kとウサギを飼って、その毛を売った銭は二人で貰ってもいいか?」と

聞くと「あー、いがっぺ」と確かに言った。

ウサギを親戚のRじいちゃんに貰ってから、Kとキヌは、毎朝、夜が明けるのを待って

ラッパン坂の下に、ウサギの餌である草を採りに行った。

なぜ暗いうちに行ったかというと、当時は川原の土手の草でも何処かの家の持ち物であり、

田んぼに入れたり、家畜の飼料として貴重なものであった。

その当時は、藁でさえも草履や筵(むしろ)などをつくる大事なものだった。

戦争の時に、明治天皇がラッパを吹いたことからラッパン坂と呼ばれているという坂を

下り、川原の土手にキヌとKはしょいカゴを背負って草を採るのではない、盗りに通った。

夏の明け方は霧が深い、草を盗っているところを見つかるとカゴも鎌も取りあげられる。

露に濡れた草は重たい、Kとキヌは這いつくばって無我夢中で草を刈った。

「あん時のかっこを、今見だら可笑しかっぺな」とキヌは言う。

濡れた草をしょいカゴにつめると、二人は、わら草履を滑らせながら走って家に帰った。

Kはキヌに

「ウサギの毛が売れたら、半ぶんこすっぺな、幾らになっぺな!」と何度も言って

それは楽しみにしていた。

キヌは、田んぼ畑で地べたを這いつくばって働く母親、母ちゃんに代わって、

もうすっかり家事万端を取り仕切っていた。

少ないが、「これで遣り繰りしろ」と毎月金を貰っていた。

「キヌのキは気が強いのキだ。キセン病みのキだ。キヌのヌは抜け目がないのヌだ。」

と兄弟みんなから言われる程、預かった金を上手に遣り繰りし、何時も小銭を持っていた。

小学校に上がって間もなくから家事をやらされ友達と遊ぶこともないキヌを思ってか、

金に困っていない時がない親たちだったが、キヌが遣り繰りして小銭を持っていることは

黙認していた。

その金を兄達があてにしてきて、貸してくれと言われると貸して利息を取ったりした。

Kはまだ金を持ったことがなく、自由に使える金というものに、それはそれは憧れていた。

ウサギはアンゴラという種類で、毛がムクムクで柔らかく可愛かった。

ウサギは、リンゴ箱を横にしたものに網を張りそこに入れて飼った。

家の庭の前にはりんご箱が十以上も並んだ。

生きものは、朝に晩に餌をやらなければならない。

春夏の間は草を採(盗)って与え、草がなくなると野菜くずや作っておいた干草に

ヌカなどを混ぜて与えた。りんご箱に餌を入れ、汚くなると掃除をした。

ウサギというのは、水をやってはいけない、そのせいか殆ど尿をしていなかった。

三四ヶ月位だろうか過ぎた頃に、ウサギの毛が十センチ程に長くなった。

Rじいちゃんが手伝ってくれて、鋏(はさみ)でウサギの毛を刈った。

ウサギの毛は目方で値段が決まる。

キヌもKもなるべくウサギの皮膚すれすれのところで刈ろうとして何度も鋏で皮膚まで

切った。

さぞやウサギも迷惑だったろう。

ウサギの毛は当時で千八百円になった。それは、二人の見たこともない大金であった。

それを父ちゃんは

「ここの家で飯食って、暮らしてんだがら、この金は預かっておく。

必要な時は出してやっから」と取り上げた。

 Kは怒って地団太踏み、暴れて地べたに転げてオイオイ泣いた。

キヌは自分のことよりKが可愛そうで涙が出た。

 

当時は、誰もが貧しく皆同じような暮らしだった。

キヌと同じ年代の者と、その頃の話をすると似たような話が山ほど出てくる。

キヌたちは、朝晩の餌やりを忘れたりすると

「弱いものに一番に食わせんだ!口の利けねえもんにヒモジイ思いをさせるなんて

許せねえ、自分が食う前に食わせろ!」とぶっ飛ばされたものだ。

その話をおみっちゃんにすると、おみっちゃんの兄貴もウサギを飼っていたが

夕食を食べ始めた時に

「オイ!ウサギに餌やったのが!?」と聞かれたという。

そして、腹が減って後でやればいいと、ウサギの餌を後回しにして先にご飯を食べていた

ことが父親にバレた。

そして「このやろう、口の利けねえもんに…」という一連の台詞があってバーンと

ぶっ飛ばされ、前歯が二本折れてしまったのだという。

乳歯の時かと聞くと、「いや、永久歯だ」と言う。

「そんじゃあ、いまのあれは差し歯か?」とキヌが聞くと

「そおだっぺなあ、永久歯はもう生えてこねえからなあ」とおみっちゃんは言った。

「いやあ頑固な親父でなあ」と、おみっちゃんの父親もキヌの父親に負けてはいない。

筋のとおらないこと、道理を弁えないこと、ケジメの付かないことは許さなかったという。

ある時、おみっちゃんが口答えしたら大変に怒りぶん殴られて倒れてしまったのだという。

やはり気が強く頑張りやのおみっちゃんは、あまりにも腹が立って死んだ振りをした。

「あれー、たいへんだよおー」と騒ぐもの達に父親は「水持ってこお」と言った。

そして、死んだ振りをしているおみっちゃんの頭からヤカンの水を掛け、ムクムクと

起き上がったのを見て「おー、生きてだが」と言ったという。

 

その頃は、百姓をして暮らしているものが殆どで、誰もが金がなかった。

キヌの父ちゃんも例外でなく、今にして思えば、あれ程筋を通し曲がったことの大嫌いな

父ちゃんが子供の金を取り上げるなど、どのような思いであったか…。

「貸し借りないのは長者の暮らし」が父ちゃんの口癖だったが、隣の家の人にタバコを

一本借りて吸っていたことがあった。

返すあてがある人は、一本は借りない。

 

その頃、風呂に入るのに、手ぬぐいが一本入り口にぶら下がっていた。

後にも先にもそれだけだった。

家から離れて建てられた隙間だらけの風呂場だった。

その手ぬぐいで身体をあらい、風呂から上がると手ぬぐいをよく絞って身体を拭いた。

両親と七人兄弟が、一本の手ぬぐいで風呂を済ませた。

その手ぬぐいさえなくなると、古い浴衣などを切って使った。

 

キヌは、夏に花模様のワンピースを作ってもらった。

その年の夏、着るものはそれ一枚だった。

汗になると洗って干し、乾く間は、むしろで身体を隠した。大体乾くと着て乾かした。

何度も洗っているうちに生地の弱いところが透けて花模様が浮いて見えた。

もんぺも一枚きりで、冬の寒い日に庭にゴザを敷き、本宅のおばあさんとそこに座って

弱いお日様にあたりながら、もんぺの継ぎを当ててもらったことを思い出す。

キヌは小学校に入った頃からご飯を作り、縫い物をやり、家事をこなしてきた。

そんなキヌに生きる知恵を教えながら、見守ってくれたのが本宅のおばあさんだった。

もんぺの継ぎあては、自分でも出来た。

しかし、キヌはおばあさんが、継ぎを当ててくれている隣で裸の寒い足を擦りながら

それを見ていた。

もんぺは、継ぎに継ぎが重なり、元の生地か継いだ生地か分からなくなっていた。

 

usagi.htm へのリンク

アンゴラウサギの毛糸のセーターを、キヌは着たことがなかった。