よっちゃん

 

 あーちゃんの母、よっちゃんとの付き合いはどれくらいになるかな。

よっちゃんは、穏やかで面倒見のいい人だ。

 一人娘のあーちゃんを連れて来るようになったのは、知り合って暫らくしてからだった。

あーちゃんは、自信家に見える。

障害者支援施設の中で話が通じる(話が理解出来る)者が少ない為、あーちゃんが皆の

面倒を見ることが多くなり、指導者のような話し方をするようになった。(と、思われる)

あーちゃんの腹立ちは、「お母さんが、電話に出てくれない。こっちは、待ってるのに」

「私に内緒で、勝手に他の人と会っているんだよ」

「やりたいことをやらせてくれないの」「一々、いちいち文句ばっかり言うんだよ」と、

これをどうやってたら分かってもらえるか!と、大きく手を振って力を込めて話す。

 

「だって、危なっかしくて黙って見てられないのよ」と、よっちゃんは言う。

平日、あーちゃんは施設に通っている。

仕事というか作業が終わると施設の車で送ってもらって自宅に帰る。

 帰宅した時に、よっちゃん母さんが居ない時がある。

「夕飯どうすんの?」「お風呂洗っておく?」「何処に行ってんの?」「何時帰るの?」

「何かやっておく?」と、あーちゃんには聞きたいことが山ほどある。

よっちゃんには、よっちゃんの人間関係があり、ボランティア活動でもやりたいこと

がある。

 それを、あーちゃんは聞きたがる、知りたがる。

子供は、何時か成長し、親の手から離れて行く。

 親もまた、何時か子育てから卒業し、自分の世界を作り上げて行く。

そこには、“距離感”と、“風通し”が必要だと私は思う。

それは、物理的な距離と、精神的な自律、自立によって出来る風通し。

 

 風通しの秘訣は、不正癒着(ゆちゃく)のない言葉。

「思考は、言葉になる」のなら、言葉を変えることによって、思考を変えることが出来る。

 ある人が、「心が素直になれなくて、ねじくれていたら、先ず『大きな声で返事』して

みろ」と言った。

私は、話し掛けられた時、『返事をする』ここからすべてが始まる気がする。

 

 さて、また脱線するよ。

私は、お祓いというか、草引きのお手伝いをしてきた。という話は何度も書いてきたよね。

生きる道を正していくのは、当の本人が行う。本人の行いでしか進まない。

しかし、ねじ曲がってしまった心根は、何もかも人のせいにして、恨みつらみ嫉(そね)

みにして、それどころか自分さえ呪って、自分の行いから逃げ回る。

 そういう人と話していて、名前を聞いた時、その人は、一瞬迷う。

名前でなくても、何かその人の印みたいなモノがあって、それを言った瞬間に、返事し

た時に、何かが解ける(溶ける)

 何なんだろうなぁ。

人は、解けたくて、自由になりたくて生きてるんじゃないだろうか。

 

 あーちゃんに、オオカミ少年と裸の王様の話をした。

よっちゃんには、まだその話はしていない。

 

 よっちゃんは、あーちゃんと話していると心配で様子を見に来る。

その心理は、“何か”迷惑を掛けていないかな、“何か”困っていないかな、“何か”やら

かしていないかな、大丈夫かな、等々。

 それは、“何か”という疑いによって作りだした架空の魔物(鬼)に踊らされている

ことに気付いていない。疑心暗鬼。

 彼女の気持ちは、暗い闇の中に居て、鬼を見ようとして作り出している。

鬼は、彼女から出て、娘に取り付き縛ろうとする。

 そこで、あーちゃんは、叫ぶ。

「ウルサイ!バカ!あっち行ってろ!」

「いっつも、お母さんは、あんななんだよ。文句ばっかり言ってさ。やんなっちゃう」

 

私は二人の必死さと不器用さが可愛い、相手を思いながら的外れで、面倒臭くって、でも、

やっぱり大事な大好きな相手。

 

がぁ、ここで、二人は、今よりもっと、シアワセになる、楽になる。のだ。

シアワセとは、別名、素直。天衣無縫(てんいむほう)ありのまま。

 

 疑うことを止め、比べることを止め、“のほほん”と今を楽しみましょうや。

って、自分は出来てるみたいに言ってすみません。

 でも、そうする努力してます。面白いでーす。

                   じゃ、そういうことで。

 

 

 

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