情

 誰かを好きだ、愛しいという気持ちは、その相手を縛り自分を縛る。

その縛り縛られが、嬉しい時期があり、苦しい時がある。

「愛した時から、苦しみが始まり、愛した時から、悲しみが待っている」という歌があっ

たっけ。

恋しい気持ち、愛しい気持ちは、情(じょう)になり、情に絆(ほだ)される。

江戸時代までは、愛という言葉はなくすべて情という言葉によって言い表されたと聞いた。

 人情、強情、薄情、愛情、友情、男の情、女の情、親子の情。

 その相手を思うことが、相手の為だという思い込み。

いや、それは単なる思い込みだけではないかもしれないが、感情が入らなければ

すんなりと行った筈のことが、その相手に対する思いいれによって、事を複雑で難解な

ものにしていくことは多い。

 

情に縛られ、情に絆(ほだ)される。

悪女の深情けというが、男女間に限らず、情に流され、情に溺れることは危険だ。

海でも川でも、流されて溺れたら命をなくす。

 

「〜してくれる?」「〜してあげる?」と言う者がいる。

一見優しく下手に出ているように見えるが、それは自分の為にしてもらいたがっているの

であり、自分を誇示したがっている。

 仕事の場にこれを持ち込む者がいる。

仕事をするとはプロであるということだ。

感情を持ち込まないということが、原則だ。

二人の睦言(むつごと)の時は勝手だが、仕事の時にこれをやられたのでは、

たまったものではない。

仕事で何か頼むのであれば、「〜してください」「〜やる気ありますか?」

「〜出来ますか?」だ。

それは、命令であり、伝達であり、依頼である。

それに対しての返事が、「出来ません」というのは、その人の能力の問題だから断ることも

仕方ないというよりも、断る勇気も必要だ。が、しかし、感情によっての「やりたくない」

は許されない。

感情をコントロールしてこそ、初めてプロといえる。

 

相手を思っているつもりで、自分のやり方を押し付け、相手の考えを聞こうとしていな

い自分に、気がつかない時がある。

 人には、それぞれの考えがあり思いがある。

自分の中に考えがあって思いがある時、他の人にもそれがあるということを、忘れてはな

らない。

「可哀想ってことは、惚れたってことよ」と、よく聞いた。

情に絆されて、の絆すは、もともと牛を縛る絆し(ほだし)からきているという。

何者かを捕らえ拘束することを、拿捕(だほ)すると言うが、これは絆(ほだ)すを

ひっくり返した言葉だと聞いたことがある。(こじ付けだろうか?)

 最初に書いたが、人間は不思議なもので、縛り縛られることが安心して嬉しい時がある。

それを欲することがある。

 そして、それが耐えがたい苦痛になることもある。

情によって、人は生きている。

 それをコントロールしながら…。

 

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