珠理10

 

「お母さん居ますか?」

「えっ、お母さんって私のこと?」

 聞かれた瞬間珠理は、目の前に立った若いママ(30歳位)が言っているのは、

珠理が今日此処に、店にずっと居るかと聞いているのか思ったが、

「いえ、お母さん、まだ居ますか?見えますか?」と重ねて聞いてきた。

 まだ珠理は、彼女が何を言っているのか分からない。

 

分からないということは、分かっていないということさえ分からない。

それは聞こえない人が、聞こえていないことに全く気が付かないように。

 

 珠理は肩の力を抜いて、目の前に立つ自分より背の低い、クリーム色のツルツルした

丸顔に丸い目を見開いている彼女の、瞳の奥を見た。

 その足下には彼女に良く似た1歳児が、よろけながら歩いていた。

 

「何を言ったか思い出せないんだけど、何も居ないと思うよ」

「そうですか、じゃ、ケリが付いたんですね」

「んー、良く分かんないんだけど、前に私、何か言ったんだね」

「はい」

「そっか、今それが思い出せないんだけど、それを言ったのは私だったかもしれないけど

違う人かもしれない」

「…」

「だけど、あなたの中で何か納得がいったというか腑に落ちたというか、まぁケリが付

いたんだね」

「はい」

「そう、良かったね」

「はい、でも本当にそうなのか見てもらおうと思って今日は来たんです」

「ふーん」

「この間も迷っていて此処に来たんですけど、奥さん居なかったんです」

「あっそう、殆ど居るんだけどね」

「そう店員さんにも言われました」

 珠理は、そういう時は会う時期じゃないんだよな。と、思う。

「良かった、今日は奥さんが居て」

「そう、アリガト。

この前は、私が何を言ったのか思い出せないんだけど」

「でも、当たってたんです、自分も本当はそれを分かってたのかもしれないと思ったん

です」

「そうなんだぁ。

で、今、私が思う事っていうか感じることを言うね」

何だか、あなたがスッキリしてる感じ」

「やっぱり、そうですか?」

「で、次に進むつうか、ステップ、ツーの時なんじゃないかなって思う」

「ステップ、ツー?」

「出来るだけのことをやるだけやったら、考えすぎない」

「どういうことですか?」

「例えば、謎が解けた。スッキリした。いい感じになった。

そしたら、これは本当だろうか、だの、これで私はいいんだろうか、だの、

今度またこうなったらどうしよう、だの、

挙句の果てにこのシアワセを手放したくないって、しがみ付き始めない」

「あー」

「私思うんだけど、最良のモノは過去にはない、未来にある。なんて言うけど

何時だって“今”が最良の瞬間で自由の時なんじゃないかな」

「…」

「全ての事は、幾つもの顔を持っていて自分が知っている顔には限界がある。

それは、例え親子、夫婦、兄妹、親友どんな気心知れた親しい人であっても違う心と顔を

持っている。自分自身にさえも気が付かない心と顔がある」

 

 と話しながら彼女との話を思い出して来ていた。

幼いころから心が通じていない、愛されていないと感じていた母親が亡くなった。

 最後の瞬間に立ち会えず、プツンと突然糸が切れた。

そこに気持ちが引っ掛かり答えがでないままきたが、子供を持って心に感じる何かが現

れた。

 その頃から、亡くなった母親が頻繁に夢に出てくるようになった。

それまでは一度も夢で見たことがなかった。

 母親は怖い顔をしていた。

最初は、怖いと思った。

 でも、何度も見るうちにせつない気持ちになった。

自分が子を持って初めて知った苛立ちと愛しさがあった。

 そんな時、彼女は珠理の所に来た。

子供が二人の話の糸口になった。

 確か「あなたのお母さんどうしたの?」と聞いた気がする。

よく覚えていないが、「お母さんが居るよ」とその時言ったらしい。

 何か、彼女が母親に言われた悲しかったことを珠理が話し出したらしい。

「あの時、お母さんが〜と言ったのは間違いだったんだよ。

確かに言ったかもしれないけど、それはお母さんの言い間違いで、あなたの聞き間違い

だった」

 過去は、自分の解釈と軌道修正で変えることが出来る。と珠理は思っている。

その場の感情に押し流された言葉は、行き場を失って着地点を見失う。

 それは軌道修正しないのか、出来ないのか、そのまま宙ぶらりんになって置き去りに

される。

 母親は不遇の人であったんじゃないか。と珠理は思った。

欲しい心を愛を与えられず、それを掴む器用さも持ち合わせずに親になった。

 持ったことのないモノは、人にやろうとしても身についていない。

愛を表現するには、あまりにも不器用な人だった。

 娘も親に似て意固地だった。娘を思う母の心は、届かないままに別れが来た。

(あったんだよぉー、確かに、あったんだよ。二人の間には想い合う心が)

 

「自分が思っていることが全てじゃないよ」と珠理は言った気がする。

彼女は持っていた帽子を深く被って、涙を流した。

涙は、足下に居た子供の頭に落ちた。

「お母さんを信じて“あげなさい”。なんて言わないよ、あなたの意志で、誇りに掛けて

信じてみな。

それが“あなたの為だ”。なんて言わないよ。

ただ信じるんだ。

良かったね、答えはあなたの中にあるもんね」

と、言った気がする。

 

 

「あれから、一度だけお母さんが夢に出てきたんですけど、笑ってたんです」

「へー」

「それから、夢に出てこなくなったんです」

「そっかぁ」

「私、もう大丈夫ですよね」

「大丈夫で、大丈夫じゃない」

「何ですか、それ」

「だぁからぁ、出来ることをやるだけやったら、心配しないで今を楽しむ。

そしたら、ダイジョウブイ!

って、言ってべ」

「ですよね」

 

子供が居て、騒がしくて、喧嘩したり仲直りしたり、みんなで笑って、一人で悩んで

当たり前のことが、当たり前にある。

 スゴイことだ。

 

 じゃ、家族を亡くしたり、人に言えない、言いたくない悩みがあったり、苦しい病気を

抱えていたり、そしたら、当たり前じゃないのか。

「人間、生きてるってことは苦しいってことだ」と珠理を育てた祖父がよく言っていた。

「苦しいことを味方に付けて、それを楽しむことが出来るようになったら位が上がる。

位が上がると、人間の評価を気にしなくなる。

そうなったら、人は心が軽くなって自由になる。

ワシはそうなろうと頑張って修行しているんだよ」と、祖父は言った。

 

 ワシもそうなろうと頑張って修行しているつもりじゃ。と、珠理は思う。

 

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