珠理3

 

 珠理はモノを貰う事が多い。

兎に角イロイロ貰う。

 欲しいなぁと思ったモノが、何だか手に入る。

そして、欲しくない物は手に入れようとしない、欲しがらない。

 全ての物は欲しい人の所に行ったらいいと思う。

そしたら、人も物も幸せだと思う。

そりゃ本当は欲しくないのに、みんなが持っているからとか、これを持っていたら自慢

出来るから、持っていないとカッコ悪いから、なんて理由で欲しがる(欲しいと勘違い)

している人は多いかもしれない。

 あと、自分が本当は何を求めているかに気が付いていない人は、もっと多い気がする。

 

 珠理は貰いやすいが、物に執着しない。

それは子供の時からだった。

2歳で集合住宅に引っ越して来た時、母方で初孫だった珠理は家がそう裕福でもない

のに押入れの下の段がイッパイになる程のオモチャを持っていたらしい。(母の談)

 それがそのオモチャで遊んでいて誰かに「いいなぁー」と言われると「やるよ」と

いとも簡単にあげてしまい、母親が気が付いた時はそれが殆どなくなっていたという。

 何か食べている時もじっと見ていると「んー」と食べている物を見ている者にやろうと

する。

それは口の中の物を出してまでやろうとするので「食べている時は見るんじゃねえ、

自分で食べねぇでやるきになっちまうから」と祖父母は言った。

 

そして、欲がない人だ。と言われることが多いが、そうかぁー?と珠理は思う。

本当は自分が欲深い人間だということを珠理は知っている。

 本当に欲しいモノに到達するにはそんなに欲しくない物に手を出してはならない。と

いうことを知っているからだ。

 何故それを知っているのかは分からない。

物心付いた時から「何もいらない」が口癖の珠理に、

「おまえは物に不自由したことがないからだ」と、物に不自由して育ったという母が言う

が、何も欲しくないは、物品でない何かを欲し続けてきた証だ。

 珠理は神仏にお願いをしたことがない。

受験の時も、好きな人が出来た時も、

「なるようになりますように、なるべくしてなることを受け止めます」と祈った。

 それも願いの一種なのだろうが、志望校に受かりますように、だとかあの人と付き合え

ますように、などと頼んだことは一度もない。

 自分という狭いカゴの中で思っている良いこと悪いことというのは、自分の欲望に流さ

れて快不快で決めていることが殆ど。

 人間万事塞翁が馬で、何が良いことで何が悪いことかは長い時を掛けて練り上げて

いってからでなければ分からない。

 仕事でも趣味でも今やっていることが、やれることが幸せだということに気が付いたら

今生きることに焦りがなく、幸せの真ん中に自分を置くことになる。

結果はその後からついてくる。が、結果にこだわり始めると今に心を入れることが出来

なくなって本当の幸せからズレてしまう。と、珠理は思っている。

 幸せとは、心の平安なんじゃないだろうか。と。

 

 珠理はある意味、自分みたいにズルイ人間は居ないと思っている。

何時も幸せなのだ。幸せでいる方法が分かっているつもりでいる。

 心配ごとがあっても、幸せの真ん中に入って行ける。

嫌なこと辛いことが起きた時、そこにある知らせや忠告を聞こうと心を澄(す)ませる。

 それは時に、そこにある辛さよりそこに向き合う辛さの方がキツイこともある。

でも、そこから逃げることは許されないし逃げても逃げきれないということを知っている。

 そして、ちゃんと向き合って知らせ忠告が聞こえた時、次にすべきことが表れてくる。

そしたら、それを行う。

 行うのは大変だが、何をしたらいいのかが分からない程大変なことはない。

やるべきことが分かって、それがやれるということ自体が幸せの真っただ中。

 

 何時も欲しいものは手に入っているんだと思う。

幸せは、ただそれに気が付いているかどうか、だけなんじゃないだろうか。

 

 次は物を貰った話でもするかな。

 

 

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